読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十三章 矜りと祈り 6

 掌を通じて、熱い水脈のようなものが徐々に流れを強めつつあるのが明瞭に感じられた。慣れ親しんだ感覚であることは間違いないが、今回は特に念を入れて集中力を高めている。指先から爪先に至るまで、濃密な念気の奔流が行き渡り、呪刀に漲る無数の呪子の波と混じり合って、不可視の泡沫が湧き起こる。念気は、呪刀術の才覚を持たない人間の躰にも等しく充満している霊的な力だが、それを取り扱い、意のままに制御する為には相応の資質と地道な訓練が要る。それは単に物理的な対象の操作という問題に留まらない。念気の動きには、その瞬間の感情の流れや質が大きく関与する。呪刀術の腕前を磨くということは、己の精神的な秩序を明確に統制することと切り離し得ないのだ。

 だが、躰の内側から迫り上がるように喉笛へ濫れてくる度し難い情念の波濤に、フェロシュは窒息の予感すら覚えていた。眼前に立ち開かる傲慢な敵手の厚かましい面構え、罪障にも恥辱にも臆する気配さえ窺わせずに、飽く迄も平静な態度を貫いてみせるムジークの図太さは、彼女の理性に正面から叛いていた。指先に行き渡り、呪刀へと惜しみなく流れ込む白熱した念気に、顫えるような瞋恚の成分が混入していることは疑いようのない事実である。紫色の凝縮された焔を眼裏へ鮮やかに想い描きながら、彼女の呼吸は呪詛にも等しい不穏な律動を刻んでいた。殺してやりたい。この禍々しい騒乱の原因を生み出した男の五体を、豚のように切り刻んで屠ってやりたい。

「来ねえなら、俺から行くぜ」

 野牛の体躯を持つその男は、握り締めた湾刀を片手で悠然と揺すってから、口の端を持ち上げた。

「向かい合ってる最中に、悩み事に現を抜かしてるようじゃ、所詮は二流だ」

 次の瞬間、暴風のような一撃が鼻先へ押し寄せ、フェロシュは弾けるように上体を捩った。甲高い音が鳴り響き、微細な金属の破片が虚空へ飛び散る。今にも睫毛に触れそうなほどの距離で、撓んだ湾刀の刃文が不吉な燦めきを帯びて迫る。辛うじて食い止めた重厚な斬撃の手応えが、稲光を浴びたような双肩の痺れとなって総身に共鳴した。

「手加減したのが分かるか、死に損ない」

 間近な距離で甚振るように囁いたムジークの蟀谷へ、フェロシュの折り曲げた中指の関節が鋭く吸い込まれた。乾いた音が響いて醜悪な男の相貌が左へ弾かれ、忌々しげな舌打ちがフェロシュの唇の隙間から漏れた。

「手加減なんか頼んでないわ」

 切株のように逞しい首筋の筋肉を不気味に盛り上げ、ムジークの鋭利な眼光が再びフェロシュを捉えた。構わずに一歩踏み込んで細身の呪刀を逆手に持ち替えながら、彼女は静かに吸い込んだ息を喉の奥で針金のように細く冷たく顫えさせた。

「死んで」

 天井へ向けて鞭のように滑らかに振り上げられた呪刀の刃文が暗い紫色の光を放ち、夥しい焔が剣尖の軌跡に沿って濫れ出した。紫色に染まった灼熱の焔が美しい曲線を描き、灯りの抑えられた室内に禍々しく反射する。間一髪、研ぎ澄まされた斬撃を躱したムジークの上衣へ黒ずんだ痕跡が斜めに走った。仄かに焦臭い空気が鼻腔の奥へ触れて、直ぐに掻き消える。

「死なねえよ、俺は」

 後方へ飛び退って再び間合いを広げたムジークは、湾刀の柄頭に埋め込まれた淡い紺碧の宝珠にゆっくりと指先で触れて、不吉な笑いを形作った。

「そんな萎びた焔で、俺の氷柱を受け止められるか、試してみようぜ」

 言い終わる前に分厚い掌で柄を握り締め、剣尖を真直ぐに差し向けて瞬時に刺突の構えを取り、ムジークは獰猛な唸り声を迸らせた。忽ち鋒鋩が蒼白い微光を帯び、吼え猛るように目映く輝く。冷たい空気の塊が鼻先へ津波の如く押し寄せた瞬間、フェロシュは反射的に身を捩って右手へ逃れていた。一瞬前まで彼女が占めていた空間を、轟然と刺し貫くように野太い氷柱が劈いて走り、正面の壁へ衝突して派手な音を響かせた。粉々に散らばった氷の欠片が、床に敷き詰められた絨毯へ硝子のように舞い落ちる。白地に染め抜かれた、黒い狼と青い梟の対峙する図案は、ジルリス人の伝統工芸プラーニャ織の代表的な意匠である。

「さあ、始まりだ」

 力強い踏込みから立て続けに放たれた氷柱の毒牙は、狭苦しい室内の空間を縦横に引き裂き、それに呼応して閃いたフェロシュの刀身からも夥しい紫紺の焔が濫れて、居合わせた人々の鼓膜を目映く焼け爛れさせた。次々に繰り出される対蹠的な属性の斬撃は、澄明な白と陰鬱な紫紺の輝きを交互に瞬かせながら、一瞬も途切れることのない応酬へ発展した。

(鬱陶しい)

 憎悪に満ちた呟きが肚の底で煮え滾り、気道を駆け上がる。食い縛った奥歯が擦れ、苛立ちが刻々と募っていく。惑わされてはならない、掻き乱されてはならないと知りながらも、自制の箍が少しずつ緩んで、危うい油断を招きかけるのを、辛うじて理性の轡で締め上げ黙らせる。応酬は劇しさを増し、猛烈な勢いで襲い掛かる氷柱の強烈な打撃が、遂にフェロシュの白刃を思わぬ角度から捉えて乱暴に弾いた。耳障りな音が鼓膜を強かに殴り、崩された体勢を立て直す遑も得られぬまま、更なる追撃が左の大腿へ迫った。そのとき、舌打ちと共に身を捩ったフェロシュの傍らへ、一陣の疾風の如く人影が走り込み、涼やかな音を立てて氷の毒牙を斬り落とした。

「多勢に無勢は趣味じゃないが、無責任な野次馬を決め込む訳にもいかないな」

 柑子色の瞳を狂暴に煌かせながら、ネルイガーが低い声で囁くように言った。正面に立ち開かるムジークの唇が陰気な弧を描き、瞳には炯々たる光が傲然と漲った。

「一対一の果たし合いじゃ、その女に勝ち目はない。そう踏んだ訳か」

「そうじゃない。まだるっこしい試合を見物してる時間がない。理由はそれだけだ」

「許可もなく、他人の決闘に嘴を突き入れるのは褒められた話じゃねえな」

「破落戸に戦士の矜りを教わる積りはない」

 はっきりとした口調で不敵に言い放つネルイガーの横顔を、フェロシュは意外な気分で眺めた。

「案外、骨のある男だったのね。見直したわ」

「それは光栄だな。だが生憎、歓んでいる時間もないらしい」

 目顔で窓の方角を示すネルイガーに促されて視線を転じると、生き血のように紅い警告燈の断片が硝子の面を撫で斬りにしていくのが垣間見えた。誰が通報したのか知らないが、官憲の初動は想定以上に早い。いや、ムジークの暴虐が帝国政府の中枢に潜む偉大な黒幕の思惑の所産であるならば、ペンブロード家の襲撃に警事局の連中が過敏な反応を示すのは寧ろ、退屈なほど分かり切った段取りであると言えるだろう。

「ムジーク。お前が平気な顔で女と戯れていたのは、警事官に手枷を嵌められる気遣いがないからか」

 ネルイガーに託されたティリアの華奢な手頸を不器用に握り締めたまま、ラシルドが険しい口調で問い質した。

「卑怯だとでも罵りてえのか? 義理や建前を重んじるのも結構だが、余り生温いことを言ってると、来るべき新時代に押し流されちまうぜ」

「来るべき新時代だと」

「そうだ。まあ、俺の知ったことじゃねえが、ガルノシュ・グリイスってのは厄介な御主人様だよ。青二才の皇帝じゃ、どうにも手に負えねえ。アラルファンのヴィオルを打っ潰す(ぶっつぶす)為に流れ者の殺し屋を雇うなんざ、御育ちの宜しい昆帝子様には思いも寄らぬ奇策だろうさ」

「あんたに何が分かるって言うの」

 抑制された憤怒を総身に滲ませつつ、フェロシュが陰鬱な吐息を漏らした。帝政の安定の為に、こうして粉骨砕身の努力を積み重ねているにも拘らず、亡国の謀略に荷担する眼前の人殺しは、官憲の庇護下に置かれているのだ。度し難く入り組んだ政治的矛盾の洞穴に足を取られて、強烈な歯痒さが精神をぎりぎりと締め上げる。

「何も知らねえよ。どうだっていい話だ。この国が滅んだって、別に俺は困らねえんだからな」

 ムジークが突き放すように答えた瞬間、それまで息を潜めて啻ならぬ事態の推移に度肝を抜かれていたティリアが、衝動的な裏切りを企てた。ムジークに気を取られたラシルドの節榑立った指先の拘束が僅かに緩んだのを好機と捉え、乱暴に腕を振り切って脱兎の如く駆け出したのだ。

「待て!」

 慌てて追い縋るラシルドの無骨な掌を器用に払い除け、ティリアは栗鼠のような俊敏さで廊下を駆け抜け、階下へ通じる暗がりに滑り込んだ。

「仲間の許へ帰るか。義理堅い生き物だ」

 折角の獲物を取り逃がしたことに聊かの痛痒も示さず、ムジークは冷淡な口調で言い放った。

「官憲は、大事な仲間を迎えに来たという訳か」

 苦虫を噛み潰した表情で、ネルイガーが苛立ちを露わに吐き捨てた。ムジークは踵を返し、紅蓮の燈光を浴びて揺めいて見える窓辺に視線を走らせた。

「仲間とは思っちゃいねえ。世の中、そんなに甘くねえさ、青二才」

「どういう意味だ」

「警事局も、一枚岩じゃねえということだ。ガルノシュの手駒もいりゃあ、春影帝の忠臣もいる。この無軌道な騒ぎを、どんな風に調理しようかと考えて舌なめずりしている連中は、派閥を問わずに幾らでも蛆のように湧くさ」

 窓枠に指先で触れながら、ムジークは溜息を吐いた。どいつもこいつも、馬鹿ばかりだ。結局、権力の奪い合いに血道を上げて、野心を慰める為ならば流れ者の人殺しに穢れた仕事を宛がうことも辞さない。無様に縛り上げられ、色々な思惑の虜囚と化して、青息吐息という訳だ。そろそろ潮時かも知れねえなと、彼は口の中だけで呟いた。

「決着は延期することにしようぜ、ソルトビル家の跡取り」

 ムジークの居丈高な口吻に不快感を煽られ、フェロシュは唇を歪めた。

「逃げ出す積りかしら」

「御互い様だ。此処で管を巻いていても、何の利益もねえ。それとも官憲が相手だろうと、殺しも辞さねえって肚か?」

 生憎、既に警事官を幾人も斬り捨てて御尋ね者の看板を提げて歩いていることは、敢えて告白しようとは考えなかった。何れにせよ、短時間で勝敗が決するとは思えない手練の敵手である。意地を張り、面子に拘って決闘の為に長居をしても、雪崩れ込んできた警事官に拘束されて余罪を見抜かれるのが落ちだ。これから未だ、旅路は果てしなく続く予定である。此れ以上の足踏みを企てるのは、私的な道草に付き合ってくれたラシルドへの裏切りにも等しい。

「分かったわ。精々、生き延びてね」

 炯々たる眼光に黒ずんだ憎しみを湛えたまま、フェロシュは押し殺した声音で、新たな宿敵に束の間の別れを告げた。