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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十三章 矜りと祈り 7

創作「刃皇紀」

 開け放たれた出窓から吹き込む夜風が、血腥い喧噪を運び、総身を包んだ。手摺を掴んで身を乗り出した途端、地鳴りのような砲声が耳を打つ。遥か彼方から、アラルファン軍事局の哨戒塔が巨大な啌気燈を紅く閃かせて、耳障りな警鐘を狂ったように打ち鳴らすのが聞こえた。

「大掛かりな捕り物になったようだな」

 ラシルドが溜息を交えて呟くと、ネルイガーが肩を竦めて首を振った。

「自ら捕まえてくれと申し出てるようなもんだ。彼奴ら、本当に気でも違ったんじゃないのか」

「身の安全より、名誉の方が大切だということだろう」

ヴィオルが名誉に固執するなんて、馬鹿げた話だと思わないか」

「他人の眼には愚行に映っても、本人は至って大真面目、という事例は、世間では別に珍しくもないさ」

 鳴り響く砲声は、官憲が本気で鎮圧に着手した証拠に違いない。ペンブロードとイストリッター、闇守の盟主として鎬を削る東西の巨頭が、長年の政治的均衡を愚かにも踏み躙り、傍若無人の乱闘に踏み切ったのだ。放置すれば、その災禍が何処まで垣根を食い破って燃え広がるか知れたものではない。司直も官憲も、闇守の無様で臆面もない失錯に乗じて、大規模で徹底的な弾圧を展開することを決断したのであろう。

「変わり身の早い奴だ」

 軽業師のように出窓を開け放って、離れの周りを囲繞する植栽の暗がりへ飛び降りたムジークの俊敏な後ろ姿は、既に凄まじい喧噪へ紛れ込んで消息を絶っていた。徐々に発砲の間隔を縮めていく火器の轟音は、正門の方角から躰を揺さ振るような衝撃となって迫ってくる。それでも血腥い殺戮と嗜虐の快感に血塗られた興奮を煽り立てられたヴィオルたちは、無益な乱闘を中止しようとはせず、愈々緊迫の度合いを増し始めた状況に却って無謀な戦意を高ぶらせているように見えた。

「追い掛けるか」

 ネルイガーの形式的な問い掛けに、ラシルドは口の端を歪めて苦笑した。

「止めておこう。ムジークは、誰かの手曳きで安全な場所へ逃れる積りかも知れん。深追いしても、徒に時間を空費するだけだ。我々も、さっさと遁走した方が良さそうだ」

「コートフェイドにどういう申し開きをするんだ」

「意外に律儀な男だな。今更、ヴィオルの重役に仁義を通そうと試みても、先方も忙しくて構っていられないだろう」

 家頭のグラムホールは、若しもムジークの捕縛という任務に失敗したら直ぐにでも警事局へ突き出してやると息巻いていたが、目下の事態が此れほど大規模な騒擾へ発展してしまった以上、彼らが自ら惹起した乱闘の火消しに忙殺されることは眼に見えていた。ペンブロードの襲撃を予測したムジークとその一派が、事前にアラルファンの警事局や軍事局へ密告を済ませていたのだとしたら、グラムホールとしても危機の見積もりが甘かったと認めざるを得ないだろう。如何にアラルファンのヴィオルが屈強な勇士の集団であったとしても、黄駿帝の征旅に抗った昔日の闇守たちのように、苛烈な弾圧に堪え得るほどの胆力を今も保持しているとは考え辛い。役人たちと穢れた蜜月を愉しむことに慣れ切った当代の闇守が、父祖の勇猛を甦らせることは至難の業である筈だ。別けても保守的な連中は、政府との生温い癒着を再建することに情熱を注ぎたがるに決まっている。ムジークを仕留める為に雇い入れた御尋ね者の行方など、関心の埒外に追い遣られることは確実であった。

「当分、アラルファンには近寄らないのが賢明だ。それでいいな、フェロシュ」

「もう気は済みました」

「強がりか?」

「此れ以上、此処で管を巻いても始まらない。その点に関しては、ムジークの意見に同意します」

 忸怩たる想いを今は咬み殺して、危難を逃れ、先を急ぐしかない。その程度の良識的な判断力ならば、未だ失っていない。フェロシュは唇を咬み締め、開け放たれた出窓の、夜風に靡いて頼りなく揺れ動く帷帳を見凝めた。此れから、アラルファンは存亡の深刻な危機に瀕するだろう。ガルノシュ・グリイスの陰湿な思惑と仕掛けは、申し分ない収穫を齎したということだ。それを悔やみ、憎んだとしても、当事者であるヴィオルたちの度し難い愚かしさの前では、塵埃ほどの価値を得ることさえ困難だろう。

「急ぎましょう。巻き添えは御免だわ」

「同感だな」

 北側に面した出窓の足許には、狭苦しい花壇が築かれ、ジュエリカの深い繁みが暗がりの底に蟠っていた。大振りの柔らかな葉が幾重にも広がり、夜露に濡れた純白の花弁がぼんやりと蒼く浮き上がって見える。ネルイガーが先頭に立ち、フェロシュが殿を務めて、三人は手摺を踏み越え、不穏な暗闇の懐へ飛び降りた。逞しく生い茂った植栽が着地の衝撃を吸収し、耳障りな音を立てた。

 北辺の外壁の片隅に、小さな木製の潜り戸が据え付けられていた。古びた錠前は既に壊れて用を成しておらず、恐らくはムジークも遁走に使ったのだろう、扉は半開きの状態で放置されていた。鼠のように息を潜めて機敏に通り抜けると、人影の絶えた狭苦しい路地が一行を出迎えた。官憲の捕手は未だ間に合っていないのか、聳え立つ石塀を睨み据える者は誰もいない。然し小走りに歩き出して直ぐに、それまで寝静まっていた民家の窓が煌々と明るみ、酔狂な野次馬たちの喧噪が深更の街衢を踏み拉くように高まりつつあることが見て取れた。

「シャイアー地区の北端に獣車場があるわ。確か夜行も出ている筈よ」

 幾度も角を折れるうちに、市域を南北に縦断するセレロン大路へ辿り着いた。重々しく武装した軍事局の砲戦呪動車が、松明の光芒を撒き散らしながら南へ下っていく。その剣呑な車列と物見高い住民たちの流れに抗うように、三人は黙々と北へ向かって駆けた。軈て潮騒のような悲鳴が背後に轟き、イストリッターの邸宅の上空に巨大な火柱が伸びているのが見えた。丘陵地であるシャイアー地区の方面から、災害対応を担う防務庁の呪動車が耳を聾するほどの劇しさで警鐘を打ち鳴らし、紅蓮に染まる夜空の麓を目指して、遽しく大路を走り去った。

「此れから、地獄のような捜査が始まるわ」

 高台へ通じる坂道に差し掛かったところで歩度を緩め、額に被さる紅髪を邪険に払い除けながら、フェロシュが陰惨な口調で呟いた。

「何もかも、変わってしまうんでしょうね」

「こういう変化を、お前は望んでいた訳ではないんだろう」

 ラシルドの労わるような口調に、彼女は態とらしく小首を傾げてみせた。

「どうかしら。望み通りの結末になるかも知れませんね」

「ガルノシュの筋書きに従って滅び去るのが、望み通りだと言えるのか」

「闇守の末裔は、そんなに柔じゃないわ」

 思わず語気を荒らげて、フェロシュは反駁した。不本意な成り行きであることは、殊更に明言する必要も感じないほどに歴然としている。捻じ曲がり、腐敗し切った闇守の裔の支配に風穴が穿たれること自体は歓迎に値するが、その起爆剤がガルノシュの走狗では情けない限りだ。闇守と影蜘蛛の構成する堅牢な秩序が、洗い浚い取り除かれた後の更地に、復権した陛派の破落戸どもが根を下ろすのでは、何の為の粛清であり改革であるのか、幾ら嘆息しても報われぬ想いが募るばかりである。

「帝都の親玉を叩く以外に、根本的な解決に至る途は考えられんだろう」

「励ましてくれてるんですか」

「血塗られた道でも、前向きに進むしかないということだ」

 アラルファン北方のギラム高地と一繋がりの丘陵へ横たわるシャイアー地区は古来、呪工士たちの集住する界隈として発展を遂げてきた。区域の北端に設けられた獣車場も元々は、呪田との往復に供されるべく整備されたもので、鉱産鉄道が開通した後も、その役目に大幅な変更は加えられていない。

 夜更けの閑散とした獣車場に、蒼白い月明かりが羅の如く覆い被さっていた。静まり返った馭者組合の事務所は、黒い板壁を継ぎ合わせた安普請で、櫺子窓から漏れ出す燈光が月明かりに溶け込んでいた。立て付けの悪い引き戸を無理に抉じ開けると、帳場の奥で居眠りをしていた老爺が、鞭で打たれたように驚いて眼を覚ました。

「こんな時間に、御客さんかい」

 口の端に零れた涎を袖口で無造作に拭いながら、老爺は大口を開けて欠伸を咬み殺した。

「此処なら夜行も出ていると聞いた。帝都まで獣車を雇いたい」

「帝都だって? 一体、何の用事だね。この辺りじゃ、夜行の車って言ったって、精々カリスタか、キグナシアだ。そんな遠方に用事があるなら、夜明けを待って鉄道の切符を買った方がいい」

 垂れ下がった瞼を擦りながら、老爺はガーシュを銜えて懶げに火を点けた。

「夜明けを待っている時間がないから、夜行の車を頼んでいるんだ。馭者はいないのか」

 素早く視線を滑らせて確かめた限りでは、眼前の怠惰な老爺の他に人影は皆無であった。年代物の大きな啌気炉が奏でる単調な焔の音だけが、強張った鼓膜を撫で回している。

「生憎、若い連中は火事場見物に出払ってるよ。見ての通り、この老い耄れに、帝都までの夜行獣車を仕立てる気力は残ってない」

「急ぎなんだ。一刻も早く、この街を離れたい」

 老爺の悠長な態度に痺れを切らして、ネルイガーが横槍を突き入れる。その声高な訴えに耳を澄ませながら、ゆっくりと紫煙を吐き出した後で、老爺は静かに眼差しを擡げた。

「あの大層な騒ぎと、何か関係があるのかい、兄ちゃん」

「関係があっちゃ、いけないのか」

 余計な詮索を躱す為に凄んでみせるネルイガーの大仰な素振りに、老爺は喉の奥を鳴らして哄笑した。

「客の素性に嘴を突っ込んで、怪我をするのは御免だね。まあ、いいさ。この老体でよけりゃ、車を出してやるよ」

 尊大な物腰で立ち上がった老爺の四肢は、齢に似合わず逞しかった。部屋の隅に置かれた手桶の水にガーシュの燃えさしを抛り込み、壁掛けから風除けの分厚い外套を下ろして、慣れた手つきで素早く袖を通す。

「無理な注文に応えたんだから、手当は弾んで下さるんでしょうな、旦那」

 綿入れの帽子を目深に被って角度を手直ししながら、老年の馭者は上目遣いにラシルドを見据え、にやりと唇を曲げた。

「無事に着いたら、言い値で払ってやってもいい」

「これはこれは、上玉の御客さんだ」

 だらしなく相好を崩し、大袈裟に仰け反ってみせると、老爺はガーシュの煙を吸い込んで赤茶けた入口の引き戸を乱暴に開け放った。

「サスティオと申します。年は食ったが、腕は鈍っちゃいねえ。旦那の気前の良さを信じて、一肌脱いでみせますぜ」