サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

赤ん坊の頭の中では何が起きているのか?

 相変わらず、風邪気味である。手短に書く。

 もう直ぐ生後八箇月が経とうとしている私の愛娘を眺めていると、不思議な感慨に囚われることがある。彼女は生まれてから未だ一年も経っていない、つまり彼女の人生は四季の一巡さえ経験していない段階にあるということだ。そのこと自体が、先ず驚くべき単純な事実である。生まれてからずっと、その成長を傍らで見守っている立場からすれば、妻の産道から這い出した瞬間の、人間というよりも若干爬虫類に似ているような顔立ちの娘が、今では全く異質な存在に変貌しているように感じられるからである。最初はまともに声を発することさえ出来ず、ミルクもほんの少ししか飲めなかった彼女が、今では声を立てて笑うし、ソファやテレビボードの縁に自ら手を伸ばして掴まり、伝い歩きをするし、ミルクも音を立てて200mlをあっという間に嚥下してしまう。記憶の中に残る生まれたての彼女と、今この瞬間を共に生きている彼女との間には、千里の径庭が存在するように思われる。

 最初は抱かれていなければ身動きさえ取れなかったのに、何時の間にか寝返りを打つようになり、座れるようになり、立ち上がれるようになる。しかも近くで観察していると、床に座った状態から徐にテレビボートの縁へ手を伸ばし、確りと力を入れて掴まり、ゆっくりと躰を引っ張り上げるように尻を浮かす、そうした一連の過程を、一体どうやって学習したのだろうと考え込まずにはいられない。誰も彼女に躰の動かし方を口頭で指導した訳ではない。遺伝子の力なのだろうか? それは体内に予め書き込まれた命令に基づいて行われているに過ぎないのだろうか? そうだとしても、それが驚嘆すべき奇蹟であることに変わりはない。

 玩具なども、最初は認識すらしていなかったのに、今はちゃんと形や色を見極めて、口の中に入れて確かめてみたり、揺さ振ってみたりと、動作の種類が実に多様化している。彼女の内なる好奇心が、成長を促す起爆剤なのだろうか? それも予め仕組まれた生物学的な衝動の所産に過ぎないのだろうか? こうした成長は果たして、後天的な学習なのか、先験的な本能なのか? 学習なのだとしても、それを習得するまでの間に、どのような手順を彼女は踏んだのだろう? 幾ら思索と観察を積み重ねてみても、謎が解ける気配はない。熱心なキリスト教徒が天地創造を信じ、森羅万象を生み出す造物主としての「神」を信仰する気持ちも、何となく分からないではない。全くの偶然で出来上がったにしては、プロセスが余りにも精巧に過ぎるように見えるからだ。

 誰かが設計図を書いて作り上げたとしか考えられないような精密な仕組みとして、人間は存在している。その変容の過程を眺めることは、否が応でも「生命」に関する茫漠たる思索を喚起せずには措かない。しかも、赤ん坊は極めて個性的な存在でありながら、同時に一般化された共通の類型のようなものを明白に備えている。一体、誰が設計図を書いたのだろう? 疑問符ばかりの緩み切った文章で申し訳ないが、こういう種類の驚嘆は、私の心を清め、温めてくれる。子供の成長は一つの崇高な神秘である。その崇高な神秘に触れることは、人の親として生きることの最大の歓びであるに違いない。