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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「儲からないことをやるのは罪である」という呪縛

 私は小売業の店長で、現場で日々、収益の追求に明け暮れている。それは私の所属する組織が「企業」であるからで、この苛酷な資本主義社会においては、利潤の追求は常に至上命題である。別に銭金を儲けることだけを念頭に置いている訳ではなく、大前提として「社会に対する価値の提供」という絶対的な条件が満たされていなければ、幾ら儲けたくても誰も財布の紐を緩めようとはしてくれないだろう。

blog.skky.jp

 仕事の帰りに偶々この記事を読んでいて、企業でも国家でも家族でもない社会的な単位としての「NPO」に就いて考える機会に恵まれたのだが、その過程で自然な成り行きとして「企業」の性質に関しても改めて顧みることを余儀無くされた。誰かに雇ってもらうことで生計を立てざるを得ない平凡な人間である私にとって、企業というのは縁の切りようもない強靭なシステムである。その本質とは何か、社会的な定義は何かと考え出して直ぐに思い浮かんだのが、この記事の表題である「儲からないことをやるのは罪である」という条件である。

 上記のブログでも「企業は採算の合わない事業に手を出せない」という記述があったと思うが、株主や被雇用者、顧客に対する重大な責任を負って日々、存続の為に齷齪と汗を流し、血反吐を堪えている企業が、儲からない事業に延々と投資を続けることは、殆ど道義的な次元で許容されない。対外的に発表した収益の予算に対して、企業はあらゆる手立てを尽くして到達することを社会から命じられている。赤字になれば、莫大な説明責任と実行責任が怒涛の如く押し寄せるのも、企業にとっては避け難い宿命なのである。

 正しい使い方なのか分からないが、企業が収益を減損するような行為に手を出して革めないのは「背任」であり、歴とした罪悪である。しっきーさん(id:skky17)は、国家でも企業でもない社会的な組織形態としての「NPO」の活用が、日本という社会に欠落している部分を補うのに有効な手段ではないかと提案している(少なくとも、私はそのように解釈した)訳だが、それは「利潤至上主義」という構造的な原理が、企業の社会的活動の「限界」として作用しているという認識に基づいている。無論、保守的な企業と雖も、将来性の確保の為には収益性の不透明な、つまりチャレンジングな新規事業に着手しなければならないこともあるだろう。しかし、多方面のステークホルダーに対する経済的責任の齎す凄まじい重圧が、企業の柔軟な活動を阻害していることも同じく一つの厳粛な事実である。

 NPOという社会的な単位を積極的に挿入することで、日本という国家の息苦しい現実に風穴を穿つのも大事なことだが、企業という組織形態がもっと柔軟な可動域を保てるように世の中の仕組みを変えていくのも、重要な挑戦ではないかと私は感じた。良くも悪くも、日本という社会は「国家=企業=家族」の構造的な同質性によって染め抜かれた硬直した環境を、グローバリズムの旋風が吹き荒れる二十一世紀の第一四半期においても未だに引き摺っている。だが、企業という組織形態が万古不易の金科玉条であると信じ込むのは、歴史に対する軽蔑に他ならない。人の手が作った物ならば、それを変貌させることも不可能ではない筈だ。無論、こうやって偉そうに一席弁じているだけでは何も変わらない。ただ、何かを変える為の第一歩として、自分の考えを文章に纏めて衆目に晒すことは、無意味な行為ではないと信じたい。