サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

食べることは、どんどん抽象化されていく

 私は仕事でサラダを中心とした所謂「惣菜」を取り扱っている。こういう業種は世間では「中食」と呼ばれていて、レストランなどの「外食」と、家庭で料理を作って食べる「内食」との中間に位置するものとして分類されている。

 大昔ならば、家族の食事は家でお母さんが作るものと相場が決まっていただろう。無論、外食産業は古くから存在していたに違いないが、その棲み分けは割合に明確であったのではないか。しかし今日では、こうした「外食」と「内食」の境界線は、「中食ビジネス」の拡大によって刻々と流動化し、殆ど溶融しつつあると言える。

 竈の代わりに、炊飯器やらガスコンロやら電子レンジやら、揚句の涯にはIHヒーターまで登場し、新築の物件ならば食器洗浄機さえ標準装備される時代にあって、料理を作るということは時々刻々と、必須の技能ではなくなりつつある。二十四時間営業のコンビニエンスストアで弁当や惣菜やカット野菜を購入することが、極めて平凡な生活の風景と化した今日では、自炊の重要性は光の速さで凋落しつつある。この流れが加速することは恐らく間違いない。勿論、料理ということが必須の技能ではなくなったとしても、それが永遠に消滅するという意味ではない。必須の技能ではないからこそ、料理は趣味としての輝きを帯びるようになるだろう。包丁や鍋釜や秤を自宅の台所に備え、塩や砂糖を袋で買い入れることは、一部の限られた好事家の特性となるだろう。その代わりに、大多数の人々の食卓には、昔ならば想像もつかなかったような高品質の「出来合い」メニューが何食わぬ顔で鎮座することになるだろう。レトルトやチルド、冷凍食品の技術は年々、驚異的な進化を遂げている。電子レンジや湯煎で温めるだけで、非常に手間の掛かった多彩な献立が出来上がり、美味しそうな湯気を立てて、私たちの餓えた胃袋を饗応するようになるのだ。

 そのとき、食べることは一種の抽象的な情報を摂取することに酷似し始める。調理技術の基本的な素養さえ知らぬままに成長した人間の眼に、市販品の美味しくて多彩な惣菜は魔法の産物の如く映じるに違いない。それは多くの人々が、インフォメーション・テクノロジーを構成する様々な科学的技術の原理に関して深刻な無知蒙昧に囚われているにも拘らず、全く何の痛痒も覚えずに、パソコンやスマホを日常的に巧みに操っている現代の卑近な状況と同じ構造を持っている。私たちは、自分では作ることも分析することも、その構造的な原理を理解することも出来ないような、魔術的な道具の数々を自在に制御することにすっかり慣れ親しんでしまった。同じように、どういう手順を踏めば、それが仕上がるのか全く見当もつかないような「惣菜」の数々に取り巻かれて、私たちは「美味しいか不味いか」だけを判定していれば済むという、何とも贅沢な境遇へ日増しに近付きつつあるのだ。そのとき、料理は手数と費用を要する「貴人の高価な趣味」へと変貌を遂げるに違いない。そして一般の庶民にとって「食べ物」は、抽象化された記号の集まりのように見え始める。それで特段の不都合はない。多くの人々にとって、食べることは単なる生理的な現象に過ぎないからである。