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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

結局、誰もが「ドナルド・トランプ」ではないのか?

社会

 連日、アメリカ大統領選挙の衝撃的な結末に関する報道が、ネットやテレビを賑わしている。傲慢で明け透けな「レイシスト」のドナルド・トランプに、アメリカの良識は屈したのだろうか? バラク・オバマヒラリー・クリントンの描いてみせた「希望」は所詮、欺瞞的な幻想に過ぎないと、世論は鉄鎚を下したのだろうか?

 私は政治に関して全くの素人なので、偶々触れた報道の内容から妄想を膨らませることしか出来ないのだが、少なくとも今回のアメリカ大統領選挙の結末が、イギリスのEU離脱決定と同等の衝撃を以て世人に受け止められたことは間違いないだろう。現在、アメリカではトランプの大統領就任に反対する壮絶なデモが巻き起こっており、新政権の船出は御世辞にも安泰とは評し難い。

 だが、この大統領選挙の結果によって、つまり稀代の曲者ドナルド・トランプの当選によって、アメリカという国家の分断が惹起されたという言い方は精確ではない。彼の当選が分断の顕在化を齎したことは事実だが、分断そのものをトランプの非常識な煽動が形成した訳ではない。

 結局、何処にでも当たり前のように転がっている筋書きが、反動的な熾烈さで燃え上がったということなのだ。特定の「敵」を定めることで組織の求心力を高めるという、明らかに年代物だが一向に擦り切れる気配の見えない政治的手法が、大々的に奏功したということだ。トランプは狂ったレイシストの汚名と引き換えに、異常な求心力を発揮して大統領選に競り勝ってしまった。イスラム教徒やメキシコからの不法移民を「悪」として名指しし、国民のナショナリズムに訴求する手口は、イラク北朝鮮を「悪の枢軸」と命名して熱狂的な愛国心の喚起と浮揚に成功したブッシュ大統領のときと同じだ。

 だが、そのような手口を共和党の御家芸のように捉えるのはフェアではないだろう。民主党政権がトランプを「レイシスト」として批判する手口と、トランプがイスラム教徒や不法移民を痛罵する手口は、同じものではないか? 結局、私たちは誰もがドナルド・トランプであることを強いられている。北朝鮮がアメリカを罵るのも、イスラエルパレスチナが啀み合うのも、結局はトランプ的な発想が私たち人間の本性として根深く息衝いているからである。そうでなければ、夥しい数の「隠れトランプ」が全米に蔓延する理由はない。無論、だからと言って選挙戦の間にトランプが繰り返した差別的なアジテーションを是認する積りはない。

 差別の定義を無闇に拡大し、抽象化することは、具体的=個別的な差別の問題を隠蔽することになりかねないという批判は、甘んじて受け容れよう。だが、差別的な思考がドナルド・トランプとその支持者にだけ見出される固有の特質であると言い切るのは余りに傲慢な態度だ。ヒラリー・クリントンは誰も差別していないのか? だが、彼はトランプのことを真っ当な人間として受け容れていただろうか? 結局のところ、二人の違いは、祀り上げたスケープゴートの違いに帰結する。ヒラリー・クリントン民主党は、希望と良識の名の下に、差別的な言辞を弄するトランプとその支持者を「政敵」に選んだ。トランプは、アメリカの国益を損なう穏健な宥和主義を「政敵」に選んだ。そして世論は僅差で、トランプの身も蓋もない「本音」とやらに傾いた。その酷薄な現実を、民主党の人々は絶望的な気分で眺めたに違いない。あんな非常識なレイシストに、アメリカの理想を踏み躙られるなんて! だが、トランプを嘲り、その粗暴な煽動を侮蔑することで、民主党もまた一つの「差別」に荷担していたのである。その隠微な差別の手口、美しく崇高な希望の羽衣を纏った上で為される「差別」の陰湿さに、多くのアメリカ人は疲弊し、苛立ちを募らせていたのではないか。だったら、いっそのこと露骨な「差別」に投票する方が、世界の変革に繋がるのではないかという別種の「希望」を、共和党は描いてみせた訳だ。それはバラク・オバマプラハ演説で訴えたような「核なき世界」の崇高な理想の「遠さ」に対する不満に基づいているとも言える。つまり、そのような美しい理想に酩酊していられる余裕が保てないほどに、アメリカの国情は劣化しつつあるということだ。そして、それは日本においても同様であると思われる。

 私たち人類に課せられた最も崇高で重要な課題が、あらゆる差別の廃絶であることは論を俟たないとしても、その崇高な理想を実現する為に性急な方法を選べば、人は独裁的な強権と圧政の途を選ぶより他ない。それでは、例えば共産主義の性急な実現が齎した数々の悲惨な帰結を反復することにしか繋がらない。問題は、そして最大の困難は、差別という普遍的な社会的構造が、その社会の存立の基盤そのものに食い入る性質を備えている点に存する。簡単に言い換えれば、あらゆる共同体、あらゆる社会が、自らの存続の為に「差別」を要求しているという点に、問題の根深さの淵源が存在するということだ。共同体が、成員の離反を防ぎながら継続的に存在する為には、差別という一種の排他的な免疫系が要請される。重要なのは差別の対象の性質ではなく、差別というメカニズムそのものである。差別に値する対象が存在するから、その結果として差別という現象が構成される訳ではない。差別すること自体が先ず先験的に要求されているので、その欲望を満たす為に何らかの象徴性を備えた、つまり明快な「目印」を備えた対象が、被差別の存在として検索され、認定されるのである。

 その意味では、例えば日本において小泉純一郎が「抵抗勢力」の定義を問われて「郵政民営化に反対する者は総て抵抗勢力である」と明言したときの、如何にもポピュリズム的な政治手法も同質であると言えるだろう。彼は「郵政民営化への賛否」という明確な踏み絵を掲げることで「政敵」の具象化を図った訳である。恐らく「差別」という一つの社会的なメカニズムは常に、そのような「敵の設定」という手続きを含んでいる。その場合に「敵」として認定される対象の性質は、幾らでも恣意的な書き換えが可能である。ナチスドイツがユダヤ人を生贄に選んだように、その根拠に客観的な必然性を求める必要はない。重要なのは「差別したい」という根源的な衝動に適当な口実を与えてやることである。繰り返すが、こうした現象はナチズムだけの特性ではないし、ドナルド・トランプのパーソナリティに帰せられるべき特殊な罪悪でもない。ハンナ・アーレントはナチズムを巡って「悪の陳腐さ=凡庸さ」に就いて語ったと聞くが(敢えて迂遠な言い方を選んだのは、私が彼女の著作に直に触れた訳ではないからである)、こうしたレイシズムの罪悪は、所謂「スクールカースト」の世界においても日常的に演じられている醜怪な社会的現象なのである。

 差別に就いて考えるとき、私は屡々、大江健三郎の初期作品「芽むしり仔撃ち」を想起する。あの作品を読んでいて感じるのは、素行不良を理由に「感化院」へ送り込まれた少年たちに対する苛烈なまでの敵意と悪意である。少年たちの収監の理由が明確に記されない為に、その印象は一層強められる訳だが、そのような表現の構成を選んだのは恐らく作者の意図的な措置であろう。彼らは、自分たちが犯した罪の重さとは不釣り合いなほどの苛烈な境遇へ監禁され、虐げられ、裏切られる。それは差別のメカニズムが、差別される対象の性質とは無関係に起動するという不条理な特徴を備えているからだ。少年が犯した罪悪の内実によって、迫害の強度が左右される訳ではない。この「差別」の理不尽な特質の禍々しさを、大江健三郎が幻想的且つ酷薄なイメージを伴って執拗に書き切っている。

 ドナルド・トランプが恥知らずなほどに露悪的な表現を続けてきたことは事実である。そのトランプに対する周囲の評価が、それまでの酷評の反動のように改善しつつあるという報道にも先日、テレビを通して触れる機会があった。最初の印象が悪ければ、少し優しい言葉を口にしたり善良な振舞いを行なったりするだけで飛躍的に印象が改善するという「加点主義」の追い風だけが、その理由ではあるまい。恐らくトランプ次期大統領も、アーレント的な意味で「悪の陳腐さ」を身に纏っているのだ。間近に接してみれば、人々はその常識的な善良さに否が応でも気付かずにはいられまい。しかし、それによってトランプへの警戒心を緩めるのは余りに迂闊な判断であると言わざるを得ない。寧ろ警戒すべきは、あれほど露骨な差別的発言を繰り返していた人物の「凡庸さ」であり、私たちはナチズムが齎したホロコーストの惨劇から学び取った種々の歴史的叡智を閑却すべきではない。そもそも、懼れたり侮ったりする相手がドナルド・トランプだけで済む筈もない。彼が露悪的で厚顔無恥大道芸人だったとしても、私たちは彼の差別的な言辞を単なる便宜的なアジテーションに過ぎなかったのだと、安く見積もって気を緩めている場合ではないのだ。少なくとも彼が「差別」を罪悪として捉える倫理的な誠実さを溝へ投げ捨てることで「巨利」を得た事実には、批判的な眼差しを向ける必要があるし、彼が「抑圧された白人中間層」の代弁者であり救世主であるからと言って、彼の今までの言動を肯定するのも危険な選択である。何故なら、それらの態度は間違いなく「差別の公共化」を助長するからである。差別は醜いことであり、社会的な紐帯を毀損する行為だという最低限の倫理的な公約数から出発しない限り、私たちは父祖が血塗れの手で築き上げてきた市民社会の本質的な「美質」さえも喪失することになるだろう。敢えて「レイシスト」と誹謗されてでも民衆の本音を代弁した、それがトランプの偉大なる功績であり政治的感覚の確かさだ、などと称讃するのは自殺行為であり、強権的な管理社会への阿諛追従に他ならないことを、私は決して忘却したくない。