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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「エコロジー」という神話 サン=テグジュペリ「人間の土地」に関する読書メモ 2

 テレビの向こう側では、世界の色々な場所で巻き起こった、大小様々な悲劇や災害の風景が、まるで果てしなく縁遠い、対岸の火事の眺望のように入れ代わり立ち代わり映し出され、日常の雑務に追われる私たちの視界を横切っていく。シリアの内戦は泥沼化し、博多駅の近くでは舗装された車道が大規模な陥没を起こし、韓国では朴大統領の退陣を要求する一〇〇万人規模のデモが異様な怒号と喊声を轟かせている。だが、それは私の日常生活には直接的な関係を持たない、絵空事のような騒擾だ。

 それだけ、私の生活は表層的な平穏さの中で営まれている。毎日のように誰かが自殺し、離婚し、交通事故で死んでいるというのに、そうした生々しい惨劇が私の視界を掠めることは殆どない。私の知らないところで巻き起こっている種々の悲劇に、私は積極的な関心を示すことがない。中東で演じられる血腥い戦争の惨たらしさも、私の日常にとっては他人事だ。それは何故なのか? 同じ時代、同じ世界で発生している重大な人道的危機が、何故、同じ人間である私にとっては無関係な絵空事のように感じられてしまうのか?

 多くの問題を抱えているとは雖も、日本という国家が、相対的に安心で安全な社会を成立させていることは事実である。無論、強盗や殺人や強姦が日常的に起きていることも事実だが、それは大多数の人間にとって慣れ親しんだ風景ではなく、例えばシリアの人々が現に体験しつつある非人間的な災厄の数々に比較すれば、私たちの送っている暮らしは驚嘆すべき凡庸さで鎧われている。「平和ボケ」という言葉があるが、私たちの国民感情は、軍人である自衛官を海外の危険な地域へ派遣することにさえ、神経を尖らせるほどに繊細で虚弱だ。そうした脆弱さに苛立つように、安倍内閣は安保法制を改廃し、憲法第九条の解釈を歪曲し、戦争に対する過敏な嫌悪感を踏み躙ろうとしている。

 私は戦争に行きたくないし、一方的な召集令状は断固として受け取りたくない。人を殺したり、逆に殺されたり、何らかの肉体的苦痛を味わうことに、私は極度の不安と嫌悪を懐いている。無論、誰かが軍服に袖を通さない限り、世界の治安が保たれないことは理解しているが、自分以外の誰かに、その役目は引き受けてもらいたいと本気で考えている。そういう図々しく厚かましい惰弱が、私という人間の内奥には巣食っている。それが薄汚い弱さであり、賞讃されるべき勇敢な高潔さとは対蹠的な資質であることも理解している。だが、私は戦争に行きたくない。だから、平和ボケを罵られようとも、年端の行かない子供たちが自動小銃を担いで誰かを殺さなければならない国に、自分と家族が生まれなかった幸運を、私は心の底から感謝している。

 そうやって私は、苛酷な状況から逃げ続ける。幾ら仕事が大変でも、シリアの難民よりは恵まれているし、イスラム国の性的奴隷に仕立て上げられた不幸な女性たちの悲嘆と絶望に比べれば、私がこれまで経験してきた苦悩など、雪片ほどの重みしか持ち得ないだろう。無論、私は自分の僥倖を蔑んでいるのではなく、素朴に歓んでいる。しかし、サン=テグジュペリの「人間の土地」(新潮文庫)に収められた、沙漠における遭難の回想を読んでいると、自分の脆弱さに若干の不安を覚えずにはいられなくなる。中東の艱難は、永久に私にとって他人事であり続けるだろうか? 北朝鮮が暴発したら? 中国が軍事力の盛大な濫用に踏み切ったら? フィリピンが過激な政治的決断に傾いたら? ロシアの覇権主義が領土的な野心となって、極東の島国に牙を剥いたら? 私たちの味わっている平凡な幸福は、極めて危うい政治的均衡の上に成り立ち、辛うじて保たれているに過ぎない。別に戦争が起こらずとも、私たちは東日本大震災の潰滅的な悲劇の記憶を有する世代である。当たり前の、疑いようもない退屈な反復としての日常が唐突に書き換えられる瞬間の、浮足立った混迷の感覚は、今でも魂の一隅に残響し続けている筈だ。

 技術的な問題から、現代の航空機よりも遥かに深刻な危難の予兆に絶えず付き纏われていた往時の飛行機の操縦士たちが、その孤独な航行の最中に感じた様々な想念に就いて、サン=テグジュペリは極めて繊細な修辞を用いて克明に報告している。その報告の内容は当時、一種のセンセーショナリズムを伴って巷間に伝播したであろうと推察される。言い換えれば、彼は特殊な経験を、或いは「個人的な体験」(©大江健三郎)を巧みな文章で語ることによって、社会に目映い衝撃を与えたのである。無論、彼の文学的な成功の由来を、個人的な体験の特異性に全面的に還元してしまうのは、公平な審判ではない。サン=テグジュペリの文章が含んでいる色々な美質、その抒情性、その音楽性、その哲学的な韻律、それら総てが渾然一体となって、彼の個人的な体験に異様な立体感を附与しているのであり、同じ経験を、或いは彼以上に特殊な経験を数多く携えているからと言って、彼のように書ける訳ではないし、そもそも彼のような文学的野心を飛行家としての生活と両立させるのは容易な所業ではないのだ。

 「人間の土地」という著作において特に印象深いのは、サハラ沙漠で彼が経験した困難な窮乏の回想である。人間の痕跡が何一つ見当たらない完全な「自然の孤独」に置かれたとき、人間がどのような思索の軌跡を辿るのか、彼の繊細な文章は極めて詳細に物語ってくれる。

 人間を、十九時間で、干物にしてしまう西風が吹いている。ぼくの食道は、まだしめきられてはいないが、こわばって痛い。何か掻きむしるようなものが、もうそこには感じられる。やがて話に聞いている、あの咳が始まるはずだ。ぼくは待っている。舌が邪魔になる。それよりもっと重大なのは、ぼくにもうまぶしい斑点が見えることだ。この斑点が、炎に変る時が、いよいよぼくの倒れる時だ。

 ぼくらは、足早に歩く。ぼくらは、夜明けの涼しさを利用する。日が照りだしたら、ぼくらはもう歩けなくなると知っている。日が照りだしたら……。(「人間の土地」(新潮文庫 P216)

 このような極限の感覚は、単に彼が灼熱の砂漠に不時着し、遭難した揚句に生命の喫水線の真下へ潜り込もうとしているから、印象深く思われるのではない。恐らくサン=テグジュペリにとって重要な意味を持つのは、自然と呼ばれるものの根源的な「反人間主義」的性格である。自然の本質的な酷薄な性格、その徹底的に無慈悲なアンチ=ヒューマニズムの暴力は、長大な人類の歴史においては元来、生きることの前提条件であった筈だが、技術の発達、つまり「人工的なもの」の勢力の伸張によって、そうした見え透いた特性は、私たち人間の意識の後景に退くこととなった。つまり、私たちは「自然」というものの畏怖すべき暴力性、その血腥く残忍な習性に関して、先人の智慧を閑却して「愚鈍」の状態に陥っているのだ。

 そのような忘却が、安易なエコロジーの「流行」を促す。勿論、私は限られた資源を用いて、より良い社会を築き上げていこうとするエコロジーの真摯な努力に対して、敬意を惜しもうとは思わない。それが徹頭徹尾「人工的な努力」であることにも、何の不審も覚えない。だが、雰囲気としての、アクセサリーとしての、表層的な観念としての「エコロジー」には、都市化された社会に生きる人間の甘ったれたノスタルジーしか見出せないのだ。「自然に優しく」という言い方は、思い上がった人間のナルシシズム的な身振りに過ぎず、私たちの祖先が苛酷な大自然の原野を切り拓いて、生き延びる為にあらゆる手段を講じ続けてきた血塗れの歴史に対する理解を欠いている。そのような度し難い驕慢と忘却が、要するに倫理的な「怠慢」が、チェルノブイリ福島原発の悲劇を招来し、決して解決することの出来ない巨大な難問を十字架の如く社会へ背負わせるのである。自然を制御する為の努力は、人間という種族にとっては本質的な召命であるが、それは自然の脅威を見縊ることと等価ではない。

 無論、原発の悲劇を理由に自然の脅威を声高に語り、無条件の屈服を選び取り、極端な自然への畏敬と讃美に傾いていくのも、人間の在るべき姿であるとは思われない。自然との共存共栄という麗しき理念が、路上の塵を拾うくらいのことで実現することはない。こうした矛盾、つまり「人間」と「自然」との複雑に入り組んだ対立と依存の問題に就いて、例えばアニメーション監督の宮崎駿は徹底的に考え抜き、その思索を「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」や「風立ちぬ」といった実作を通じて更に深め、磨き上げているように見える。私たちが生きる為には、自然は「敵」であると同時に「母胎」でもある。この解決し難い両義性を目の当たりにすれば、口当たりの良いファッションとしてのエコロジーが下品な趣味に感じられるのも止むを得ない成り行きであろう。私たちはアスファルトで舗装された硬質な地面の上を涼しい顔で闊歩しているが、一たび災厄が降り注げば、抑圧された獰猛な「自然」は亀裂から噴き出し、暴虐の限りを尽くして私たち人間の慎ましい生活を致命的に粉砕してしまう。その事実から、ラッダイト的なテクノロジーへの拒絶を引き出すのも、科学的な努力への過剰な妄信を導き出すのも、共に中庸の理念を忘れ去った反動的な選択である点では、同じ穴の狢である。

 だが、サハラ砂漠の苛酷な自然に呑み込まれ、生命の危機に瀕しても猶、サン=テグジュペリは決して大自然の畏怖すべき脅威に屈しようとはしないし、人間的なものへの敬愛を放擲しようとも考えない。寧ろ、彼はそうした自然の無慈悲な側面に触れることによって益々、人間的な精神性に対する信頼を磨き上げ、研ぎ澄ましていくのだ。彼は自然に対する屈従、或いは所与の現実に対する苦渋に満ちた屈従を愛さないし、肯定しない。「精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる」という掉尾の一文は、彼の倫理的な信条の表明である。自然の苛烈な本性を目の当たりにしながらも、敢えてそこに鋤や鍬を打ち込もうとする人間の攻撃的な特性を、彼は「飛行機」という媒体を経由することで自ら表現し、実現しているのである。宮崎駿サン=テグジュペリの著作に愛憎の入り混じった執着を示す理由も、その辺りに存するのではないかと思われる。

 

人間の土地 (新潮文庫)

人間の土地 (新潮文庫)