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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

詩を書いても何にもならない

 また、思い立って詩を書いている。そういう根拠の不確かな思いつきに衝き動かされるのは、私の人生における根本的な慣習である。

 詩なんか書いても仕方ない、という想いは昔からあった。そもそも、詩歌というものには、世間的な需要が殆どない。或いは、そういう需要は、文字の列なりという形で提示される現代詩の世界に対する関心には繋がっていかないのが、一般的な傾向であろう。音楽の世界では、色々な詩が、様々な旋律に乗せられて、日々発信され、巨大な市場を形成している。無論、詩歌というジャンルにおいても、時折何かの拍子に世間の耳目を集め、厖大な金額のセールスを記録する場合もあるが、それは極めて稀少な現象で、稀少であるからこそ余計に注目を浴びるという循環が成立しているようにも思われる。つまり、一般的ではないのだ。

 そうした詩歌の現状を考えるに当たって、優れて象徴的な事例であると考えられるのが、ボブ・ディランノーベル文学賞受賞という快挙である。アメリカのミュージシャン、社会的なメッセージや難解な文学性といった特色は纏っているにせよ、紛れもなく商業的な音楽の成功者である彼に、ノーベル文学賞という保守的な権威が賛同を示したという事実を巡って、巷間で様々な議論が交わされた。ノーベル文学賞が、自らの保守的な老化を恥じるように、ポピュリズムへ屈したという構図で、事態の本質を切り取ろうとする意見もあれば、素直にボブ・ディランの「歌詞」の文学的な価値に対する正当な評価への讃辞を表明する意見もあった。

 色々な見方はあると思うが、率直に客観的に事態の推移を眺めたとき、詩歌というジャンルに本来期待されている芸術的な価値が、詩歌とは異質なジャンル(全く無関係であるとは思わないが)によって実現され、評価されているということが、一つの見解として成り立つのではないかと、私は思う。スウェーデン・アカデミーがボブ・ディランノーベル文学賞を授けたことが、芸術的な価値に対する審美的判断として妥当であったかどうか、そういう難解な問題に答えを出す力は、私には欠けている。重要なのは、そうした具体的な問題に論点を絞ることで、此度の議論の性格をゴシップ的なものに堕落させることではなく、もっと綜合的な視野から事態の「意味」を俯瞰することである。ボブ・ディランの歌詞に保守的な文学賞が与えられたという事実は、所謂「詩歌」が、つまり「音楽と分離されたものとしての詩歌」が、芸術的な価値を衰弱させているという審美的判断が、いよいよ露呈し始めた、或いは公的に是認されつつあることの傍証である。

 実際、詩的な言葉というものを、音楽や肉声から切り離した状態で味わうことに、少なくとも一般的な日本人は関心を持っていない。詩集を日常的に繙読する習慣を堅持している人は、この国では貴重な存在ではないだろうか。売れなくなったと言われて久しい小説に比べても猶、詩集は商業的な利益を齎さない、偏屈な「商品」として、書店の本棚の片隅に追い遣られている。

 だが、ネットを通じて、個人の情報発信の敷居が極度に低くなった現代において、詩歌には新たな可能性が宿りつつあるのではないか、という気もしている。特にスマートフォンの爆発的な普及は、「いつでも、どこでも、誰でも」情報を送受信し得るというSF的な環境を実現してしまった。しかも、その機構は日進月歩の発展と成長を維持している。そういう環境の中で、詩歌と電子メディアの相性は決して悪くない。小説を読むより、詩歌を読む方が、スマホの使い方としては相応しいのではないか? 無論、それだけで詩歌の世界の閉塞的な苦境が打開されるとは思えないが、一つの希望を懐くことは、決して罪悪ではあるまい。