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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ギフトとしてのブログ

 ブログを運営し、極めて個人的な文章を世間に向かって垂れ流すことに、何の意味があるだろうか。誰に頼まれた訳でもないのに、誰が関心を寄せるかも分からない、身勝手な主題を選んで、身勝手な文章で書き綴る、というのは、腕の悪いストリート・ミュージシャンのように傍迷惑な営為であるに違いない。インターネットの情報空間に、不法投棄された産業廃棄物のような文章の群れに、敢えて新たな仲間を付け加えていく作業に、崇高な意義など見出しようもない。

 だが、それでも書くことは一種の「贈り物」ではないかと、私は思う。無論、世間一般の身も蓋もない現実同様に、贈り物というのは必ずしも相手に歓ばれるとは限らない。自分では素敵な品物を選んだ積りでも、相手にとっては単なる重荷にしかならない場合も少なくない。具体的な金品に限らず、言葉や感情表現でも同じことだ。相手の為を想って投げ掛けた言葉が却ってナイフのように、相手の触れられたくない部分を抉ってしまうこともあるだろう。誰かに何かを「贈る」ということは、極めて難解な行為だ。それは贈る側の力量が試される難しさであると同時に、贈られたものを受け取り、適切な仕方で活用することの難しさでもある。

 文章を書くこと、それは多くの場合、誰かに求められて始まるのではなく、自らの意志に基づいて最初の一歩が踏み出される。その意味では、書くことは常に「御節介」だ。自分の考えや想い、記憶などを誰かに伝えようとするのは、往々にして「余計な行為」なのである。しかし、その「御節介」を安易に踏み躙ることは出来ない。或いは、踏み躙るべきではないと思う。人間の本質は、色々なものを「共有すること」に強い愉楽を覚えるように仕組まれている。それは人間が群れを成し、支え合わなければ生き延びることが困難であった有史以来のプリミティブな記憶と結びついた、堅牢な習性である。

 人間はあらゆるものを交換し、共有しようとする。言語でも、経済でも、恋愛でも、何かを互いに譲り合い、分かち合い、確かめ合うということは人間の普遍的な本性であると言って差し支えない。書くことも、そうした人類の普遍的な欲望と不可分の関係にある。どんなに下らない内容でも、誰の関心も惹かない内容であったとしても、それが差し出されたという事実は、書かれた言葉の「ギフト」としての性質を証明する。そして、或る人にとっては無価値な贈り物が、他の人にとっては待ち望んだ最高の贈り物である可能性は、全面的には排除し得ない。寧ろ、そういう反応の差異は、この世界では有り触れた現象であろう。

 そういう奇蹟を信じる以外に、書くことへの情熱を支える倫理は考えられない。つまり、自分が書いたものが、見知らぬ誰かの心に届くかも知れないという奇蹟を信じることなしに、書き続けることは出来ない。無論、それは宗教的な祈りに似ている。祈りは、報われることが絶対的な目的ではない。ただ祈り続けること、その盲目的な継続の精神だけが、つまり「祈る」という営為と一体化した精神だけが、贈り物が受け止められた瞬間の比類無い歓喜を味わう権利を、この世界から認められるのである。