サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

理解されること、記憶されること

 芸術の目的、或いは「本望」は、理解されることではなく、記憶されることに存するのではないだろうか。

 芸術は何かを説明する為に存在するのでもなく、何らかの論説を述べる為の代替的な手段でもない。それは何かを伝えようとするが、その伝えようとする内容を「要約」することは、芸術の根本義に反している。一幅の絵画、一葉の写真、一篇の詩歌に籠められた想いは、単体として抽出される「部分」ではないのだ。それは極めて綜合的で、一つ一つの細かな要素に分解し得ないものである。

 理解するということは、物事の本質を掴むということで、それは必然的に「取捨選択」の手続きを伴う。事態の全体を、分析を通じて様々な断片へと腑分けし、重要な部分と些末な部分とを分類し、一つのヒエラルキーによって纏め上げる。そして、或る表現が伝えようとしている内容を「要約」する。そういう分類と秩序化の手続きが、理解するという営為を成立させている。

 日常の会話において、或いは実用的な目的の下に展開されるコミュニケーションの現場において、こういう「理解」のプロセスは極めて重要な意味を担っている。私たちは伝えるべき内容を明瞭に整理整頓し、余計な枝葉を切り払い、要点が相手の「理解」に届くように工夫を凝らす。成る可く簡潔に、本質的な主題を言い当てるように表現の洗練を図る。或いは、曖昧で多義的な表現を排除して、不透明な情緒的意見を取り除いて、混じり気のない、論理的な記号のような滑らかさで、伝えるべきことを伝えようとする。契約書や、法律や、説明書や、新聞記事を思い浮かべてみれば、そこでは「精確で厳密な伝達」に特化した言葉の使い方が実践されていることが分かるだろう。

 だが、そうやって咬み砕かれた「要約」のように受け取られることは、芸術家にとっては本意ではない。少なくとも芸術作品は、そのような明快で一義的な「意味」に還元され得ないからこそ、芸術という形態を選択しているのだ。あらゆるジャンルの芸術に対する批評家たちの解説を徴すれば、それが芸術作品そのものの豊饒さと相反する抽象的な貧しさに囚われていることが分かるだろう。或る一篇の詩歌を読んで、それに付け加えられる解釈の貧しさから、その作品自体が奇妙に痩せ衰えて見えることもある。それは芸術的なものに対する陰惨な暴力に他ならない。

 本当は、あらゆる芸術というものは、理解されることよりも、そのまま丸ごと記憶されることを願っているのではないかと思う。色々な尤もらしい註釈を加えられ、無惨に解剖され、不当なレッテルを貼られることが、芸術の幸福ではない。単純に、そのまま、何も付け加えず、何も差し引かずに、あるがままの状態で受容され、記憶されること、それだけが芸術的な欲望に対する最も適切な対応ではないか。何故なら、芸術というのは「何かをそのまま写し取って伝えたい」という「共有への欲望」に支配されているからだ。要点だけに縮減し得ない何かを伝えたいと願うときに、人は詩を語り、絵を描き、楽器を奏する。そこに具体的な「意味」など存在しない。ただ表現することだけが、芸術における唯一の「価値」の姿なのだ。