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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

冤罪弁護士

 先日、NHKで「冤罪弁護士」として知られる今村核氏に関するドキュメンタリーが放送されていた。番組の優れた出来栄えも然ることながら、何と言っても今村氏の独特なキャラクター、或いは生き方と、日本の刑事裁判が抱えている現状の問題点が興味深く、法曹の世界に無知な私も、思わず惹き込まれるように見入ってしまった。

 日本の刑事裁判の有罪率は、99%以上であるらしい。素人目には、この端的な事実が如何なる含意を有するのか、俄かには推し量り難い。検察として、概ね確実に有罪に持ち込めるという算段が立った時にしか起訴しないという方針を貫いているのかも知れないが、客観的に見れば、これでは日本の法廷は検察の絶対的優位性の下に運営される空間であるという理解を、素人である私が懐いても奇異ではないだろう。

 どう頑張っても敗北が決定付けられた試合に臨まねばならない被告の立場、それを多くの人々は問題にしようともしない。自分は犯罪とは無縁だと思い込んでいる人が、この国では多数派であろうし、良くも悪くも司法の世界というのは、市井の庶民には縁遠く、接する機会に乏しい領域であるから、果たして刑事裁判の有罪率が99%を越えているという素朴な事実に如何なる意味が潜在しているのか、それを疑問に思うことさえ少ないだろう。だが、それは本当に、疑念を懐くに値しない凡庸な現象なのだろうか? 何故、刑事裁判の有罪率は、それほどまでに高いのか? 推定無罪、即ち「疑わしきは罰せず」の原則は、何処まで尊重されているのだろう?

 無罪を勝ち取ることは極めて難しいと言われている刑事弁護の世界で、今村氏は既に十五件の無罪を勝ち取っている。その事実は、今村氏の弁護士としての優れた技倆と特異な情熱を立証していると同時に、刑事裁判の極めて高い有罪率が、必ずしも正当な数値であるとは言えないのではないか、という疑念を喚起する。実際、冤罪によって不当な拘禁を十数年も強いられた人も存在する。私は半ば無自覚に「警察」や「検察」といった公権力の正義を信頼しているが、彼らも人間であり、悟りを開いた聖人ではないのだから、色々な失錯や過誤を惹起することもあるだろう。

 恐るべきことは、冤罪という悲劇的な事件が、必ずしも特殊な事例であるとは限らないという端的な事実である。人間が調べ、人間が裁きを下し、結果として一人の運命が無慈悲に決定される。悪事を摘発し、然るべき劫罰を下すことは、社会の秩序を保つ為には欠かせない手続きであるが、その手続きが僅かな謬見を含んでしまうだけで、一度しかない人生が雑草のように踏み躙られてしまう。今村氏は、経済的には全く報われない刑事弁護の仕事に情熱を燃やしながら、そのような司法の、或いは権力の驚愕すべき残忍さに淡々と抗っている。そういう人物が同時代に存在して、何とも屈折した風貌で飄然と己の選び取った使命に取り組み続けているという事実に、私は励まされた。