サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 三十三 遽しい船出

 頑迷であることと、信念に忠実であること、見た目は同じようでも、実際の働きようは随分と異なる訳で、一概に良いとも悪いとも決めかねるのが、私たちの暮らす浮世の厄介な側面である。クラム・バエットが、己の信念と決断に対して頗る忠実であり、その精神的な強靭さが、様々な艱難を破砕する重要な原動力として作用することは、一応は事実として認めておかねばなるまい。彼の自分自身に対する情熱的な確信が揺るぎなく稼働し続けているからこそ、彼は護送小隊の棟梁として相応しい威厳と行動力と理知を発揮することが出来ているのであり、その大事な屋台骨を取り去ってしまえば、私たちは異郷の土を踏みながら陰気な顔で途方に暮れることになる。だから、私にはバエットの堂々たる自信と尊厳を侮ったり批難したりする意思は毛頭ない。彼は地味な外見で、幾らか狷介な物腰の為に周囲の評判も悪いらしいが、立派で野心的な男だ。その言動には、曠野を生き延びてきた精悍な狼の風格さえ滲んでいる。

 けれども、漸く掴みかけた貴重な船出の切符を有難がって押し戴こうともせず、此方の都合を先方に腕尽くで呑み込ませようと企てるのは少々、辛抱が足りないように思われた。狐色の頭巾を被った取引先、即ちマジャール・ピント氏は如何にも一筋縄ではいかない荷厄介な人物のように見えたし、法網を掻い潜るのが商売の、隠避船の乗員である彼が物柔らかな紳士である見込みは非常に乏しいと判断せざるを得なかった。

 長々と続いた押問答の涯に、漸くマジャール・ピントが夜明け前の出帆に同意した理由は、クラム・バエットの言い分に納得したからではなく、飽く迄もバエットが提示した高額の報酬の効果であった。何しろ、今回の仕事の背後には豊かな資産と強力な権勢を誇示するソタルミア州侯家が控えているのだから、札束で頬を叩くぐらいのことは極めて容易な選択肢なのだ。

「だったら、今直ぐ出るぞ」

 高値の報酬に眼が眩んだと言うより、それを材料に自分自身の抑え難い憤怒を宥めたという具合で、ピント氏は引き攣れた左眼の古い傷痕を神経質な指遣いで摩ってみせた。

「少しでも夜の闇が長引いてくれた方が仕事は遣り易い。その点に就いては、異論はねえな?」

「結構だ。直ぐに船を出してくれ」

 開き直って自暴自棄になったようにも見えるピント氏の言葉に、バエットは平然と頷いて、床を蹴立てて颯爽と動き出した。

「パランド」

 ピント氏は丸顔の人夫に声を掛けて、先に埠頭へ赴いて出航の準備に着手するよう、苛立たしげな口調で命令を下した。

「場所は何処にする。何処で落ち合えばいい」

「十六番埠頭だ。纏まって来るなよ。散り散りに、時間をずらして集まれ。素人じゃねえんだから、それくらい気は利くと思うが」

「十六番埠頭だな。三十分後に向かう」

「三十分?」

「遅いか」

「違う、早いと言ってるんだ。俺たちは、手品師じゃねえんだぜ?」

「夜明けまでの時間を、少しでも稼いだ方が賢明なんだろう」

「つくづく厭味な野郎だ。アルガフェラの旦那の口利きじゃなけりゃ、ベルトリナスの餌にしてやるところだ」

「望むところだ。俺もベルトリナスは大好物さ」

 吐き捨てるようなバエットの憎たらしい言種に刺激されて、ピント氏は開いている方の眼を思う様剥き出して、口角に濁った泡を滾らせながら黄ばんだ前歯を突き出した。

「いい度胸じゃねえか。船の上に出りゃ、主役は誰だか分かって言ってるんだろうな」

「誰にも主役を譲り渡す積りはない。それだけだ。いいから、さっさと船の仕度をしろ。金は払うと言ってるんだ、何の不足がある」

 凄味を利かせてみても一向に効き目の感じられないバエットの図太い態度に足許を掬われたような不本意な格好で、ピント氏は押し黙った。傍から見ている私たちにしてみれば、堪ったものではない。周りを取り囲んでいる屈強な体躯の男たちは皆、ピント氏の忠実な手先である訳で、バエットの無礼極まりない挑発的な態度に激高しかけながら、辛うじて理性の内側へ踏み止まっているような剣呑な顔つきを並べている。このまま万が一、血腥い殴り合いに雪崩れ込んでしまえば、幾らバエットが精強な護送員であっても、多勢に無勢の窮境は挽回のしようがないし、そもそも私とポルジャー君は荒事の苦手な文弱の役立たずなのだから、忽ち捻じ伏せられて肋骨の一本や二本くらい圧し折られることは覚悟しておかねばなるまい。未だ終着駅の見えない途方もなく陰鬱な旅路の半ばにあって、骨折の激痛を抱え込むのは断じて願い下げである。

 そこへ毛むくじゃらの逞しい腕を突き込むようにして割って入ったのは、累代の隠避船周旋屋の当主である御大アルガフェラ氏であった。彼は独特の掠れた濁声を張り上げて、啀み合う二人の厄介な男たちの下らぬ抗争に終止符を打つべく、巨体を揺さ振って両方の掌を劇しく打ち合わせ、耳障りな音を響かせた。

「その辺で切り上げておけ。この血の気の盛んな御客さんをさっさと海の向こうへ運んじまえよ、ピント。人間だと思うから腹が立つんだ。札束だと思えば、拝む気にもなるだろう」

「俺は銭金に魂を売った覚えはない」

「商人の本懐を思い出せ。まともに相手にする必要はねえんだ。単なる積荷だ」

 アルガフェラの言葉に少しも心服した様子を見せぬまま、ピント氏は足許の薄汚れた板目へ唾液を吐き捨てて、硬い靴底を乱暴に踏み鳴らして部屋を立ち去った。