サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

希望の代名詞としての「こども」

 間もなく生後九箇月を迎えようとしている娘の挙動を日々眺めていると、色々な感情や想念が去来する。上機嫌に遊んでいるときの笑顔は格別で、天使のように愛らしく思えるが、機嫌が悪くて、口に銜えたおしゃぶりを寝室に充てている和室の暗がりへ投げ捨てるときなどは、無性に憎たらしく腹が立つ。無論、天使と悪魔の両面を兼ね備えているのが人間の本質で、それは生後一年にも満たない赤ん坊においても同様だ。

 娘を連れて歩いていると、年配の人々に声を掛けられることが多い。彼らの姿を見ていると、やはり「こども」というのは特別な存在なのだ、ということが実感として伝わって来る。全くの赤の他人に彼らが特別な事情を介さず、無防備な親密さを示してくることは考えられないし、娘を連れて歩いていなければ、私たちの間に何らかの人間的なコミュニケーションが成立する土壌は生まれなかったに違いない。彼らが「こども」に異様な愛情を示すのは、恐らく眺めているだけで心を励まされるような感覚が、彼らの胸底に宿っているからだろう。それは何も年配の人々に限らず、私のような三十歳前後の人間でも味わうことの出来る、成熟した感覚である。つまりは私も「大人になった」ということなのだ。

 子供が子供に示す愛情は対等なものだが、大人が子供に示す愛情は互いの関係性の次元が根本的に異なっている。大抵の少年少女は、例えば思春期くらいの少年少女は、小さな赤ん坊を街中で見掛けたとしても特別な関心を懐こうとはしない。偶に見かける、小さな赤ん坊を眺めて嬉しそうな表情を浮かべる女の子などは、それだけで比較的成熟した人格の持ち主であるように感じられる。彼女たちは或る意味で「大人」の領域に足を踏み入れつつある。幼子に対する「庇護」の愛情を懐けるかどうかは、例えば歳の離れた弟妹を持っているかどうかなどの性来の外在的条件によっても左右されるだろうが、本質的には、その人間の精神的な成熟の度合によって決定されるのではないかと私は思う。

 「私はもう子供ではない」という自覚、或いは主観的な命題が、無力な存在としての「こども」に対する愛情の礎石となる。そもそも、愛情というのは何かを与えようとする欲望の名称であり、「こども」は専ら与えられることによって満たされる性質の存在である。与えられるのではなく、与えることに歓びを見出すようになったとき、人間は少年少女から脱皮して一人前の「大人」として生きていく途に差し掛かる。赤ん坊を見ていれば直ぐに理解出来ることだが、彼らは自分自身では何も出来ないし、自由に動き回ることも、自らの飢渇を癒やすことも出来ない。つまり、誰かに縋りついて、恵みを与えられない限りは一日たりとも生き長らえることの不可能な「絶対的弱者」なのである。自ら与える力を持たない弱者にとって、同じ弱者の存在は何の頼りにもならないし、少なくとも「庇護の欲望」を喚起されることは有り得ないと言っていい。だが、与える力を手に入れ、与えることの歓びを学んだ人間にとって、無力でありながら刻々と成長し続ける「こども」の目映さを支えることは、比類ない歓喜であり、愉楽である。愛すれば愛するほど、「こども」という具体的な存在は「希望」の象徴のように光り輝く。希望を愛することほど、人間の魂に勇気を湧き上がらせる行為は他に考えられないと、私は信じる。