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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 三十四 洋上の夜襲、艱難の調べ

 遽しい出立の準備の涯に乗り出したヘルガンタの沖合の海原には、月明かりと星屑の照り返しが美しく繊細な綾を描き、吹き抜ける潮風に総身を嬲られながら、私は自分がすっかり海の男の同胞へ転身したような気がして、慣れ親しんだ凡庸な現実との隔絶に眩暈を覚えた。つい此間まで、私は陰気な事務室へ終日古びた鞄のように押し込まれたまま、次から次へと押し寄せる種々の紙片に視線を走らせ、ペンを走らせて、夥しい数の捺印を繰り返しながら、乏しい俸禄を食む生活を我慢強く営んできたのだ。運命の変転の驚くべき鮮やかさに、強いられた境遇と内的な霊魂の生活との乖離が日毎、深刻化していくのを、私はどうすることも出来ずに只管、押し流され続けていた。磯の香りが漂う深更の甲板で、愈々見慣れぬ異郷の海へ漕ぎ出した自分自身の姿が、何処か他人事のように感じられるのも、旅路に親しむ機会の稀であった今までの半生を顧みれば、至極当然の反応であったと言わざるを得ない。

 きらきらと鱗のように光り輝く広大な海面へ視線を吸い寄せられたまま、私は神経の図太い護送員たちのように宛がわれた黴臭い船艙の暗がりで高鼾を奏でる気分にもなれず、夢魔の気配を嗅ぎ取ることさえ叶わぬままに、傾いていく月明かりに照らされて、孤独な時間を咬み締めていた。夜の深み、泥濘のような静寂と、潮騒の単調な律動が、私の鼓膜をこの上なく懶い音楽として擽り続け、それでも訪れようとしない遥かな眠気に手を伸ばすことを諦めて、私はずっと黙り込んでいた。

 異変に気付いたのは、その単調な時間がどれくらい持続した後だったのだろう。月明かりと星屑の燦めきは視界の一面に広がって、無慈悲に横たわる夜陰の陰鬱な暗闇を縦横に打ち砕いていたが、それとは異質な色彩の光が、意識の片隅を掠めるように束の間、閃いた。勘違いでなければ、それは確かに不吉な深紅の瞬きであった。邪悪な海の怪物が巨大な双眸をちらりと覗かせたような、一瞬の出来事に過ぎなかったが、夜の闇に半ば溶け込んで拡大した私の意識の焦点は、その禍々しい幻影のような光明を看過しなかった。

「何だ、あれは」

 暗い海原を斬り裂くように、或いは闇に紛れた波頭の合間に潜り込むように、その深紅の光は幾度も断続的に私の視界の中心で揺らいで見えた。眼を凝らして固唾を呑み、上体を硬く強張らせた私の視界、その閉ざされた領域の中央で、それは鬼火のように幾度も現れては闇の懐へ隠れて消えた。そのとき、貧相な商船の恰好をした私たちの束の間の隠れ処、マジャール・ピント氏の支配する古びた隠避船の主檣から、見張りに立っていた水夫の叫ぶ声が聞こえた。鼓膜を強かに殴りつけるような甲高さで、水夫の叫び声は静まり返った夜半の甲板へ五月雨のように降り注いだ。

「フクロウだ! フクロウだ!」

 慌てふためいた男の頑丈な腕が、望楼の上に掲げられた鐘を劇しく打ち鳴らして、眠り込んだ乗組員たちの暢気な時間を叩き壊した。

「フクロウだ! フクロウが迫ってるぞ!」

 何のことやら分からずに寂寞たる甲板で立ち竦んでいた私にも、鬼気迫った男の怒号が不安と恐慌の気配を報せた。フクロウという言葉が何を意味する隠語なのか、咄嗟に推し量りかねたが、少なくとも幸福の徴候でないことは確かであるように思われた。再び顔を上げて舳先の方角へ視線を注ぐと、今度は逃げも隠れもせずに深紅の鬼火が洋上に光り輝いて、刻一刻とその輪郭を肥大させつつあることが明瞭に判別し得た。それは恰かも海原の暗がりに巣食う不穏な妖怪の眼球のように異彩を放っており、訳も分からぬまま緊迫した雰囲気に呑み込まれつつあった私の胸底に焔の如く熱を与えた。心臓が高鳴り、脂汗が額の生え際から透明なインクのように滴り落ちる。異様なものが着実に、私たちの乗り込んだ贋物の商船に向かって陰湿な動きで近付いてくる。私は金縛りに遭ったように動けなくなり、舷側の手摺に片手で掴まって竦んでしまった総身を懸命に支えた。

「フクロウだと」

 知らぬ間に誰かが近付いて、私の直ぐ傍で極めて沈着な声音で呟いた。態々振り返らずとも、この数週間の旅路の間に培われた記憶が、声の持ち主を特定する確かな材料として働いた。我らが大切な総大将クラム・バエットが、厚手の開襟シャツの上に使い込まれて色褪せた防水用の深い群青色の外套を纏って、堂々と甲板の上に佇立していた。

「俺たちが不運なのか、マジャール・ピント氏が木偶の坊なのか、どっちだろうな」

 毎度のことながら、すっかり藁人形のように立ち竦んで動けなくなった役立たずの私に殊更に語り掛ける訳でもなく、飽く迄も独り言のような口調で、バエットは舳先の彼方に揺れる不吉な鬼火の光を凝視していた。

「フクロウというのは一体、何ですか」

 夏の初めとはいえ、流石に真夜中の洋上を吹き抜ける潮風は充分に冷え切っており、極度の緊張と動顛に苛まれた私の憐れな唇はカラカラに乾いて薄らと罅割れつつあった。