読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 三十五 暗い海原を渡る「フクロウ」たち

創作「ツバメたちの黄昏」

 誰でも承知していることだろうが、広大な海洋は彼方此方に人目の行き届かない未知の領域を宿しているもので、深い森や猛々しく険阻な山岳と同じく、或いはそれ以上に、公権力の緻密な支配というものから無限に解き放たれている。それは一面では政治的な圧力からの無際限な自由を意味しているが、他面では弱肉強食の無法な原理が大手を振って目抜き通りを練り歩いているということにもなる。何れが望ましいかと問われれば、膂力に自信のない私のような弱虫の立場から言えば、無法よりも秩序の方が有難いに決まっている。自力で各種の危難から己の慎ましい生活と頼りない生命を守り抜き、堅持することが難しい人間にとっては、生来怠惰な筋肉を鍛え上げることに心血を注ぐより、真面目に退屈な仕事を熟して獲得した賃金を税金の納付に割いて、警官でも軍人でも雇い入れた方が遥かに現実的且つ合理的で、手っ取り早くもあるのだ。

 だが、知恵と腕力に潤沢な矜りを有する勇敢な人々の間では、私の考える現実的な損得勘定が、馬鹿げた奴隷の屈従として捉えられることも決して稀ではない。それほど縁遠い場所に好個の事例を探し回らずとも、例えば現に私が世話を焼いてもらっている護送小隊の面々などは、厳格に戒められた社会で縮こまって芋虫の如く地道に生き延びるよりも、こうした無法の原野で新鮮な酸素を吸い込むことの方に豊かな人生の価値を見出しておられるに違いない。

 フクロウと呼ばれる人々、無学な私にとっては又新たな種族の御出ましという訳で、混乱する頭の中身を整理する遑もないが、煎じ詰めれば彼らは洋上の悪党、追剥やら火付けやら、暴虐の限りを尽くす不逞の集団、即ち海賊の一味であった。彼らは海の上の色々な仕来りならば細かいことまで熟知しており、闇夜に紛れて密航を試みるヤミツバメたちの生態に就いても充分に御存知であるから、こうして夜更けの沖合に待ち伏せて、官憲へ助けを求めることも出来ない隠避船の弱みに付け入り、乱暴狼藉を仕掛けて面白がりながら暴利を貪るのも珍しい話ではなかった。悪党ゆえに、同じ悪党の考えることならば幾らでも想像の世界で辿り直すことが出来るのだ。

「海原には、どんな無法も起こり得るという訳です。夜の海が果てしなく暗く、決して奥底まで見透かすことが出来ないように、人の心に思い浮かぶ悪事の種類は限りがない」

 遽しくフクロウの奇襲に備え始めた周囲の喧噪を余所に、クラム・バエットは堂々たる威厳を身に纏ったまま、観念的な見解を悠然と語り続けた。深紅の鬼火は既に極限まで差し迫り、今では単なる焔の塊ではなく、巨大な檣燈の輪郭を明瞭に見分けることが出来る段階に達していた。それでもバエットは落ち着き払った態度を崩さずに、俄かに掻き乱された暗い洋上の静寂を惜しむかのように、銜えた葉巻を赤々と燻らせた。

「誰しも考えることは同じという訳だ。そうだな、ピント」

 知らぬ間に背後へ歩み寄っていた隻眼の男の名を、バエットは前方を凝視したまま、静謐な口調で呼んだ。狐色の頭巾を寒々しい甲板の闇に溶かしたマジャール・ピント氏は、バエットと同じく周囲の切迫した荒々しい空気とは無縁の涼しい面差しに、紙巻の莨を銜えていた。

「この海域には、フクロウどもが昔から、うじゃうじゃと湧き出るのさ。屍に蛆虫が湧くように、法網の届かねえ夜の海にはフクロウどもが湧く。古くからの仕来りのようなもんだ」

「心得ているなら、もう少し慎重に海図を読み解くべきじゃなかったのか」

「慎重だと? 笑わせるな。出発を急がせたのは何処のどいつだ」

「夜明けが迫っているのに、命知らずの愚者どもと喧嘩している場合じゃないな。片付けるなら、さっさと片付けよう」

「フクロウ相手に決闘を挑もうって言うのか。それこそ時間の無駄だ」

「こんな貧相な艀で、フクロウの商売道具の船を振り切れるのか?」

 後に学んだことだが、フクロウと呼ばれる海賊たちは生涯の大半を洋上で送る為、隠避船のような安物の船舶には乗らない。彼らは獲物を追い詰めるときにも、不幸なことに洋上を警邏する海軍の一団に遭遇して逃げ惑うときにも、自らの乗船に抜群の速力を要求するので、世の中には払い下げの軍艦の類を乗り回している屈強な連中も実在するのだ。此度の襲撃者がどの程度の水準の船を愛用しているのかは定かではないが、大物ならば乗船の水準も侮り難いだろうし、そうなれば急拵えの隠避船で立ち向かうのは如何にも分が悪い。隠避船の連中にとって、幾らでも失敗の懸念が山積している世界で大事な一張羅の船舶を用いるなど、馬鹿馬鹿しいほどに非常識な考え方であり、危機が迫れば直ちに乗り捨てても惜しくないように中古の朽ちかけた船を補強して使うのが彼らの常套なのである。

「乗り切れるかどうかなんて、考えるだけ馬鹿馬鹿しいのさ。臆病者は、博打に金を投じることを惜しむ。だから、何時まで経っても財産を築けねえんだ」

 ピント氏の昂然たる言い分に、バエットは口の端を持ち上げて肩を竦めてみせた。

「その意見には、生憎同感だな。最初から時間を浪費するのも下らない話だ。とりあえず逃げ切れるかどうか、挑んでみるか」