読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 三十六 パドマ・ルヘラン氏の分不相応な矜持

 当時も今も、フェレーン皇国の界隈では帆船が主流で、崇高なフェレノ王家の威光と版図を護衛する為に国庫から潤沢な支援を受けている軍艦に限っては、油を燃やして外輪を回す最新鋭の機構が据え付けられているものもあるが、それも海軍においてさえ主流派とは言い難かった。

 私たちの行く手を阻む不審船も、巨大な横帆と夥しい数の小振りの縦帆を備えた快速の帆船で、遠洋を泳ぎ回りながら暮らし続けるフクロウの中でも、それなりに羽振りを利かせている連中の乗船であると推察された。海賊の分際で随分と立派な船を所有しているのは、彼らが日頃から随分と暴利を貪り、血腥い犯罪の類に手を染めていることの確たる証拠であると同時に、この辺りの海域に対する司直の統治が不充分であることの傍証でもあった。特にダドリアの政治的動乱が日増しに病状を悪化させていくに連れて、海洋の治安という唯でさえ容易には保ち難い理想が猶更腐蝕していくのは避け難い成り行きであると言えた。

 ピント氏の号令で、私たちの乗り組んだ貧相な隠避船は九時の方角へ向けて回頭を始めた。深紅の鬼火を煌々と燃え立たせるフクロウの船は既に間近へ迫っており、逃走の算段を入念に検討している時間的猶予は皆無であった。気紛れな夜風の力だけに頼っていては間に合わないので、隠避船の水夫たちと護送団の面々が手分けして櫂を漕ぎ、少しでも速力を補うことになった。尤も、帆走に慣れている水夫と護送員たちにとって、沖合の力強い潮流に逆らって長大な櫂を操るのは難儀な作業であり、しかも互いに知り合ったばかりの彼らが息を合わせて規則的に水を掻くのは極めて困難であった。それでも手段を選り好みしていられるほど悠長な局面ではないので、水夫も護送員も啀み合うことは差し控え、懸命に櫂の柄を握り締めて働き続けた。

 然し、幾ら人力の櫂を夢中で動かして速度を高めようと努めても、相手の立派な帆船が備えている圧倒的な勢いを振り切るのは至難の業であった。回頭して遁走を試みる私たちの憐れで見苦しい姿が、余計に彼らの残忍な戦意と邪な野心を煽り立てたきらいもある。それでも無我夢中で潮騒の鳴り響く夜半の海を航走するうちに、四時の方角から此方へ肉迫してきたフクロウの船が、舷側に据え付けた簡素な砲台から縄で括られた十字型の鉤を吐き出した。

 逃げ惑う私たちの船の脾腹へ、打ち出された複数の十字鉤が獰悪な猛禽の群れの如く襲い掛かり、硬質な牙を容赦なく突き立てた。洋上の暗がりの中で、十字鉤を結わえた頑丈な麻縄が白い蛇のように波打ち、耳障りな音響が私たちの鼓膜を打った。甲板に屈み込んで劇しい船体の揺れに堪えていた私の肩口へ分厚い掌を置き、バエットが低い声で警告と命令を発した。

「逃げ切れる見込みが乏しくなってきました。貴方は部下を連れて船艙へ避難して下さい」

 本音を言えば願ったり叶ったりのバエットの提言であったが、私のような盆暗にも人並みの矜持というものは備わっており、監督官の職責を拝命しておきながら、形式上は「目下」である護送団の方々に万事を委ねて自分だけ安全な場所へ逼塞するというのは、俄かに承服し難い行為であった。たとえ甲板に居残ったところで、修羅場を知らない純朴な書記官風情が弛み切った飽食の飼猫ほどの役にも立たないことは自明であったが、如何にもその言葉を待っていましたと言わんばかりの敏捷さでバエットの有難い指示に従属する訳にはいかなかった。

「そういう訳にはいきませんよ。私も、この護送小隊の一員なのですから」

 傍らで硬直したエレファン・ポルジャー君が、私の勇敢な科白に感銘を受けたように蒼白の頬へ突如として紅を浮かび上がらせた。偉大な先輩への尊敬の念を掻き立てられて、持ち前の生真面目な気質が百年分の埃を払ったように魂の奥底から噴き出してきたらしい。そうなっては猶更、私としても面子を守る為には臆病な退却など断固として峻拒せねばならない格好になった。

「自分だけ安全な場所に鼠のように逃げ込んで、獰猛な野良猫どもの暴虐が過ぎ去るのを、指を銜えて顫えながら待っているなんて、到底我慢ならない屈辱だ」

 心にもない科白を半ば上擦った声で並べ立てながら、私は総身がかあっと火照っていくのを明瞭に感じていた。自分の言葉に自分で引き摺られていくように、私は私自身の勇敢な決断に目くるめく崇高な美しさを覚え、冷静な判断力を急激に失っていった。船腹へ食い入った獰悪なフクロウどもの十字鉤が刻々とその数を増し、逞しい麻縄が闇の中の洋上へ何条も飛び交って、邪悪な膂力で私たちの乗り組んだ脆弱な隠避船を手繰り寄せていく。致命的な破局の瞬間は着実に接近しつつあり、実際に格闘が始まれば私が示した束の間の勇猛など粉微塵に吹き飛んでしまうことは確実であった。

「監督官殿。素晴らしい御決断です。私は、監督官殿の御覚悟に胸を打たれました!」

 興奮した様子のポルジャー君は、頼りない性格とは裏腹にがっしりと力強い指先で私の肩口を掴み、潤んだ瞳に窮境へ追い詰められた人間だけが持ち得る一種の熱狂的な愚かしさを湛えて、愈々私の赤裸々な本心が要求している退却の可能性を堂々と捻り潰した。