サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 三十九 漂流の引鉄

 クラッツェルの度肝を抜くような爆発的な一撃を喰らってからの、フクロウたちの動顛と混迷は思わず哄笑したくなるほどに深刻で、滑稽に感じられた。自分たちは性悪な十字鉤を山ほど発射して獲物の航行の自由を奪い去ることに御執心でありながら、自分たちが規格外の反攻を仕掛けられた途端に泡を食って右往左往し始めるのは如何にも痛快な眺望であり、彼らが今まで主檣を圧し折るような豪気な連中を獲物に選んだ経験がないことの傍証でもあった。気勢を削がれたフクロウたちは大慌てで打ち込んだ十字鉤の麻縄を斬り落とすことに夢中になり始め、御蔭様で私たちの古びた隠避船は徐々に嘗ての自由を取り戻しつつあった。

「とんでもねえ馬鹿力だな。銛で主檣を圧し折るなんざ、聞いた例がねえ」

 舷側の手摺を乱暴に擦って抉り取りながら帰って来た愛用の銛を慈しむように撫で摩るクラッツェルの異様に発達した上腕の力瘤を見遣りながら、マジャール・ピント氏は呆れたように口笛を吹いた。彼が驚嘆するのも無理のない話で、そもそもクラッツェルが取り扱っている巨大な銛は人力で投擲するには到底相応しくない代物なのだ。普通ならば専用の捕鯨砲を用いて火薬の力で撃ち出すべき水準の重量であり、それを自分の鍛え上げた腕だけで持ち上げるだけでも面食らうほどの偉業であるのに、その尋常ならざる銛を思い切り投げ飛ばし、剰え先方の船の主檣を破砕してしまうなど、殆ど人間業とは言い難い奇行であり、壮麗なる快挙に他ならなかった。

「うちの護送小隊は変わり種を揃えてるんでね」

 落ち着き払った表情で言い放つクラム・バエットの眼差しには、期待通りの成果を競り落としてくれた頼もしい部下に対する手厚い信頼と深甚な慈愛が分かり易く滲んでいた。彼が有象無象の、いや、こういう言い方は失礼だろう、百鬼夜行、いや、これも似たようなものだが、兎に角一筋縄ではいかない癖の強い連中ばかりを集めた五十六番護送小隊の主として、部下に対する敬意と信愛を充分に備えていることは、揺るぎない事実であるらしい。そのことに改めて思い至り、不甲斐ない新人の書記官を抱えた私は、己の未熟な人格を恥じ入りたくなった。

「見ろよ。ジグレルの銛撃ちに腰を抜かして、フクロウどもが逃げ出していったぜ」

 見物客の列に加わっていた炊事番のフォートラスが、汚らしい髭面を明るい哄笑に歪めながら大声を張り上げ、遽しく遠ざかっていく海賊船の無惨に圧し折られた主檣の残骸を指差して騒ぎ立てた。実際、彼らは明瞭に従前の戦意を失っており、墨を流したような暗い洋上の波間に、斬り落とした麻縄の破片や十字鉤を投げ捨てながら、最早此方を顧みようともしなかった。

「だが、問題が片付いたって訳じゃねえ」

 渋い顔つきのピント氏は、生き残っている右眼を細めて、自分たちの乗り組んでいる船の帆柱を仰ぎ見た。実際、ピント氏の言う通り、主檣を砕かれて慌てて遁走を決め込んだ海賊船の連中を暢気に嘲笑している場合ではなかった。雨霰と降り注いだ十字鉤の鋭利な牙に、私たちの命綱である夥しい数の帆布は根こそぎ衝き破られ、本来の機能を果たせなくなっていたからだ。夜明けが訪れる前に、官憲に見咎められない場所まで辿り着いていなければ、私たちもフクロウの同族として取り扱われ、ダドリアの大地を踏む前に無様に拿捕されることになりかねない。仮に司直が重い腰を持ち上げなくとも、余所者の抜け駆けを忌み嫌うヴェンドラ州侯家の一派が何処へ罠を仕掛け、監視の蝙蝠を羽撃かせているか知れたものではない。にも拘らず、軒並み帆布を食い破られてしまった貧相な隠避船には、速力を上げる術も柔軟な方向転換を図る力も残っていない。人力で櫂を漕いで進むことは出来るが、何れにせよ帆布を破られた帆船の速力を補うには不充分な選択肢であることは疑いを容れない。

「潮の流れが拙いな。この辺りの海域は、櫂を漕いで向きを変えられるほど、生易しい流れじゃねえんだ」

 ひらひらと夜風に靡く破れた帆布の切れ端を見上げながら、ピント氏は苦り切った口調で呟いた。

「押し流されるままということか」

 不満げなバエットの口調に唯でさえ敏感な癇性を弄られたように、ピント氏は熱り立って狐色の頭巾を左右へ大きく揺らした。

「文句を言うなら海へ飛び込め。この辺りの海域は『シュタージの尻尾』と呼ばれてるんだ。誰が海の化け物の尾っぽに逆らえるって言うんだ?」

「船乗りは迷信深くて困る。夜明けが来る前に、安全な場所まで流れ着けるように只管祈れと言うのか?」

「そういうことだ。精々、自分の強運を信じて神様の御慈悲を希うんだな」

 もう付き合い切れないといった様子で双肩を聳やかし、忌々しげに両脚の靴底を踏み鳴らして船室の扉へ去っていくピント氏の背中を、バエットは飄然とした物腰で何も言わずに見送った。シュタージというのは、ビアムルテ州からダドリアの南岸諸州にかけての地域で信仰されている土着の怪物であり、化外の存在に対する敬虔な尊崇の感情を大雑把に省略して説明するならば、要するに巨大な海蛇のことである。尤も「シュタージ」という名称はファンカス人の言語に基づいた表現であり、ダドリアの人々は同じ海蛇を指差して「ショアルヌン」と呼ぶ。あの獰猛なベルトリナスの数十倍の大きさを有する肉食の怪物で、帆船の主檣よりも幅のある銀色の背鰭は、触れたものを直ちに腐らせる強烈な猛毒を含んでいると、古来の伝承は無辜の民衆を脅かすように仰々しく告げている。

「強運ならば、自信があるさ」

 闇に没した錦繍海峡の復活した静寂に耳を傾けるように眼を閉じて、バエットは普段と同じ沈着な口調で呟き、ゆっくりと船艙へ向けて歩き出した。