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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 四十 シュタージの尻尾に導かれて

 それから、漂流は三日三晩続いた。

 不機嫌極まりないマジャール・ピント氏の御託宣の通り、人力で櫂を漕いで乗り超えるには、錦繍海峡を抜けた先の海域は潮の流れが余りに劇しく手強かった。ウェルゲリア大陸南岸と、ラカテリア亜大陸東北部のセヴァン半島に挟み込まれた錦繍海峡は、穏やかな潮流に恵まれた平和な内海であるが、その幸福な秩序はヘルガンタを越えて二十里も往かぬうちに終焉を告げる。そこから所謂「シュタージの尻尾」と呼ばれる強烈な海流へ呑まれる訳だが、この南北に広がる巨大な海蛇の猛威は、帆布の破れた貧弱な帆船では到底太刀打ちし難い代物なのだ。

 温厚で慈悲深い錦繍海峡の恩恵に与って長閑な航海を続けてきた船舶も、ダドリアへ乗り入れるに当たっては例外なく、シュタージの科す峻厳な試練に打ち克つことを要求される。シュタージの尻尾は、ダドリアの南岸からラカテリア亜大陸の北岸へ向けて時計回りの風車のように突き進む海流であり、その残虐な力動を踏み越えない限り、私たちが目当ての港へ辿り着ける可能性は微塵も生まれないのであった。外輪を備え付けた頑丈な軍艦ならば、シュタージの尻尾の不機嫌な潮流に怯えたり媚びたりする必要もないのだろうが、そのときの私たちが乗り組んでいたのは主要な横帆さえ食い破られた惨めな隠避船、しかも大慌てで調達した老朽船であったから、幾ら御機嫌を窺っても窺い過ぎるということはなかった。

 押し流されるままに風と潮に流され、望みの方角へ舳先を保つことさえ叶わぬまま、私たちの貧弱な密航船は強靭な潮流の導きに従い、少しずつ南へ向かって運ばれていった。すっかり臍を曲げてしまったピント氏は、こんな疫病神の積荷を抱え込んだ己の不運を劇しく呪詛する余り、船底の船首側に設けられた粗末な船長室へ閉じ籠もったまま、ずっと不吉な沈黙を貫き続けて、朝も夜も全く私たちの眼前に姿を見せなかった。最初の夜明けが訪れ、東の水平線が蒼白く燃え盛って火の粉を巻き上げ、遥かな彼方に薄らと靄のかかった陸地の輪郭が見え始めると、私たちはダドリアの洋上を警邏する軍艦の唐突な出現に怯えなければならなかった。幸いなことに、憐れな漂流を強いられた貧相な偽装商船に着目する官憲の船は一艘も見当たらず、脆弱な獲物を探し求めて波間を徘徊するフクロウの一味と新たに遭遇する悲劇にも見舞われなかった。だが、その代りに私たちの精神を追い詰め、責め苛んだのは終わりの見えない不安定な漂流の日々が齎す、独特の不安と窮迫であった。

 そもそも密航船という闇の稼業は厖大な危難に晒され得る商売であり、累計でどれほど巨額の暴利を貪っていたとしても、一旦囚えられて投獄されれば忽ち行き詰まるのが宿命の生業である。港を出ても無事に帰還し得る見込みが少ない上に、官憲から逃げ惑う羽目に陥った場合、足跡を消し去る為に船を積荷諸共、乗り捨てるような事態に追い込まれることも皆無ではない。従って密航船の主人たちは成る可く余計な積荷を持ち込まぬように極限の労力を支払い、あらゆる創意工夫を凝らして難破や乗り捨ての危険に備えることを鉄則としている。物見遊山を目的とした豪奢な客船ではなく、飽く迄も禁じられた土地へ秘密裡に辿り着くことだけが狙いの船路であるから、無闇に金品を持ち込むことは言うまでもなく愚かしい御法度で、水や食糧などの必需品に就いても可能な限り量を減らして、拿捕されたときの損失を抑制するように努めるのが普遍的な定石なのだ。

 要するに長旅には向かない極端な軽装で広大な海原へ漕ぎ出すのが隠避船の宿命である以上、解決の糸口の見つからない不幸な漂流は最も乗員に対する損害の大きな状態なのである。今になって顧みれば三日三晩で陸地に辿り着けたという幸運な事実を基準に、一切の事態の成り行きを安穏と眺めることも出来るが、残忍なフクロウどもから命辛々逃げ遂せたばかりの当座は、自分たちの未来に対する一片の希望も確信も掌中に持ち合わせない状態で、不案内な海域を神々の采配に従って押し流されるだけの時間が積み重なり、私たちは誰もが極度の疲弊と絶望に苦しめられていた。

 シュタージの尻尾に導かれ、或いは無造作に引き摺り回されて、私たちは来る日も来る日も目的地ダドリアの岸壁から少しずつ遠ざかり、官憲と海賊の鋭利な眼差しに薙ぎ払われることを絶えず危惧しながら、着実に目減りしていく食糧と真水の在庫に神経を尖らせ続けた。このような事態に至っては、つまり所定の目的を順調に達成することが酷く困難な境遇に追い込まれてしまえば、最早隠避船の水夫たちの側に、金蔓である私たちへの配慮や敬意を期待することは殆ど絶望的な祈りに等しいと言えた。彼らはマジャール・ピント氏の激情に満ちた感想に盲目的に従属して、私たちのことを忌々しい疫病神として嘲り、蔑むことに熱中した。彼らは私たちに食糧と真水の分け前を与えることに関して酷く吝嗇な姿勢を示し、乾涸びた大麦のパンの欠片と、すっかり表面の皮が萎び始めた少量の柑橘を譲り渡すことだけで、紳士的な理性の過半を使い果たしてしまうような有様であった。脂の凝った塩漬けの獣肉などは宝珠にも砂金にも勝る貴重品であり、飢渇に苛まれて日毎に頬の輪郭をナイフで削いだように痩せ細らせていく私たちの視界を、その生臭い財物が掠めることは一度もなかった。