サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ファンタジーという言葉

 難しく考え始めたら際限がなくなる主題というのは、世の中に幾らでも転がっている訳で、言葉の定義なんかも厳密さを追求し始めたら、それこそウロボロスの如く出口の見えない無限の循環へ呑み込まれる結果に帰着しかねない。

 ファンタジー、という言葉には、仄かに幼稚な幻想趣味の香りが付き纏っているが、それは私たちが実際に所属しているどうにもならない「現実」の表層を、ページを捲るようにズレさせることから始まる営みである。だが、そうやって考え始めてみても、直ぐに手頃な答えが得られるかと言えば、決してそんなことは有り得ない。「現実」の表層をズレさせるなんて、そんな観念的な言葉の詐術で何らかの真理を剔抉し得たと思い込むのは、デジタル化された愚者のつまらない戯言でしかないのだ。だが、そこから地道に思索の調べを奏で始める以外に輝かしい道筋が存在するという訳でもない。

 ファンタジーとは、異界の構築である、と、そのように大上段に振りかぶって定義してみても、真実への道程が明らかにされる訳ではないが、少なくともファンタジーがありのままの現実の単純な追認や転写によって構成される営みでないことは、一つの経験的な事実として認められるだろう。それはありのままの現実を屈折させ、通常ならば考えられない科学的法則を流通させたり、そもそも「何処にも存在しない場所」を言葉や絵の力を借りて擬似的に成立させたりすることで達成される、一つの抽象的な魔術である。それが私たちの精神に訴え掛ける力を備え得るのは、私たちの精神が本来的に、ありのままの現実との「距離」として形作られているからであろう。何かを認識したり思惟したりするという精神の本質的な機能自体が、ありのままの動かし難い現実からの「剥離」として原理的に構造化されているのである。