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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ファンタジーという言葉 3 (乾石智子という作家に関する覚書)

文学

 最近、乾石智子の「魔道師の月」(東京創元社)という小説を読んでいる。

 私にとって、乾石智子の作品に触れるのは、彼女の処女作である「夜の写本師」(東京創元社)に続いて未だ二作目に過ぎず、この「魔道師の月」という小説も100ページほどを読み進めた段階でしかないのだが、思い浮かんだことを書き留めておきたい。

 「夜の写本師」においても「魔道師の月」においても共通して言えることだが、恐らく作者の乾石智子という人は、幻想的な物語を設えるに当たって絶えず「憎しみ」という倫理的な主題に強く惹きつけられているように感じられる。もっと言えば、彼女の紡ぎ出す神秘的な物語を通じて描き出され、問い詰められているのは「人間は憎しみとどう向き合い、どう乗り越えていけるのか」という主題であるように思われる。

 無論、彼女は単純に「憎しみ」という感情だけを綺麗に暴き出して、洗浄されたピンセットで取り扱おうとしているのではなく、寧ろあらゆる人間の情念の形態を「清濁併せ呑む」といった感じで綜合的に受け止め、解剖しようと努めているのではないかと思う。実際、彼女の文体は洗浄されたピンセットのように無駄を省いた機能性とは異質な原理によって駆動されている。矢継ぎ早に繰り出される言葉の、一つ一つの選択にも、様々な情景描写の作法にも、独特の癖が染み込んでおり、合理的な説明などというものに文学的な信仰心を捧げることを拒んでいるように見えるほどだ。

 だが、様々な人間の感情を癖の強い文体で選り好みせずに捉え、手早く腑分けしているように見えても、結局のところ彼女が最も強く惹きつけられているのは「憎しみ」であり「悪意」であり、もっと象徴的な言葉を用いるならば「闇」であると言うべきだろう。「夜の写本師」においては、露骨なまでに人間の残虐な「悪」の要素が強調され、徹底的に描写され、大魔道師アンジストという一つの不吉な人格の内部に統合されている。無論、そのアンジストへの讐怨に燃える写本師カリュドウもまた、同じ「闇」の虜囚であることに注意を払わねばならない。彼女の作品が巨大な「悪」を描きながらも、明快な勧善懲悪の冒険活劇へと収斂していかずに、寧ろ物語の筋を破綻させかねないほどの混乱と錯綜へ絶えず脅かされているのは、「悪」と対峙する側の人間の内面にも煮え滾る「悪」或いは「憎しみ」が宿っている為である。

 つまり、外在的な「悪=闇」を葬り去ることによって、美しき純潔と正義を復活させようとする明快な筋書きが、少なくとも「夜の写本師」という作品においては否定されているのである。その厄介な否定、或いは自己批判の要素が加味されることで、彼女の生み出す物語の時空は一挙に重層化し、複雑な多面性を露呈するようになる。別の言い方をすれば、人間の「闇」に対する彼女の絶望は、表層的な(社会的な?)解決をどうしても否認せずにはいられないほど、深刻で根源的な性質を有しているのである。

 従って、彼女の産み落とした物語の登場人物たちは多かれ少なかれ、純粋で高潔な「正義」という理念から見限られることになるだろう。彼らが憎む相手と、彼ら自身との間には根本的な同質性が介在しており、復讐の焔を燃え盛らせることはそのまま、己の魂を糜爛させることと同義なのである。彼女の内なる物語は、悪漢の敗北によって解決に至ることが許されない。斃すべき「悪」を自らの外部に措定することが出来ない、という絶対的な矛盾が、乾石智子という作家にとっては重要な「掟」として受け止められているのではないだろうか。

 「魔道師の月」においても、冒頭から現れる「暗樹」然り、シルヴァインを虐殺されたことによって癒し難い憎悪を抱え込むことになった魔道師キアルス然り、その物語の空間には人間の産み出す「悪」或いは「闇」の諸相が瞭然と刻み込まれている。キアルスに限らず、タペストリーに描かれた歌い手テイバドールもまた、異族によって故郷の地を逐われ、憎しみの種子を胸に宿す。その一方で、テイバドールの父が息を引き取る前に息子へ「敵を憎むな」と言い残したという描写が強調されていることにも、読者は注意を払うべきだろう。作者は、復讐を果たす快楽を読者と分かち合う為に、この壮大な異界の風景を幻視してみせた訳ではないのだ。