サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

己の「無明」を悟るべし

 新聞記事やテレビの報道番組などでも、よく見かける慣例の一つに、「破綻」という単語を「破たん」と表記する、というものがある。私はあれを眼にする度に何とも歯痒く、情けないような気分に陥ってしまうのだが、無論、あれは当用漢字という国家の指針を遵守しているからこそ、必然的に発生する現象なのだろう。公共性の高い機関が、国家の指し示した道標に対して知らんぷりを決め込む訳にもいかないだろうから、その判断自体を彼是と論う意図は、私の側にもない。

 だが、そうやって束の間の分かり易さを重んじる大衆的な手法に固執することで失われてしまう「叡智」が存在することに、私たちはもっと先鋭な危機感を持つべきではないだろうか。分からないものを調べて詳しく繙こうとする賢明な(懸命な)努力を撤廃することが、円滑な意思の疎通に繋がると信じるのは、人間として余りにも怠惰な選択である。読めない漢字を用いることが大衆的な規範に抵触するという考え方の根底には、他者の「無知」に対する臆面もない蔑視が根を張っている。読めない漢字があるのなら、明治期の新聞の如く、ルビを振ればいいではないか。ルビさえ振ってあれば、私たちは未知の漢字や熟語に遭遇しても匙を投げずに、秘密の扉を抉じ開ける為の手懸りを掴むことが出来る。見知らぬ漢字や熟語、端的に言って「知らない言葉」に触れることは何よりも先ず、叡智と真理へ通じる回路を押し開くことに他ならないのだ。それなのに、何でも読み易く分かり易く咬み砕いてやればいいという離乳食的な発想によって、あらゆる歯応えを予め取り除いてしまうのは(尤も、実際の離乳食はきちんと「歯応え」にも細かい配慮を加えているが)、人間の理知を堕落させ、致命的に毀損する行為であると、私は感じている。

 こうした「分かり易さ」への過剰な、殆ど自動的な傾斜の趨勢は、昨今の世の中に広く瀰漫しつつある社会的方針であるが、分かり難いものを不愉快な怪物の如く遇するのは不毛であり、愚昧である。無論、それが無闇に「分かり難いもの」を神秘的な偶像のように崇める馬鹿げた教養主義への敵意に根差している可能性は、考慮に入れなければならないだろうが、そうした反動が保守的なまでの「明快さ」への執着を齎すのであれば、結局は症状の根源的な改善には帰着しないと看做すべきであろう。平明であること、それは幼い子供の教育には必要な配慮かも知れないが、大人になった後も甘ったれた雛鳥のように誰かが分かり易く組み替えてくれた口当たりの良い「御菓子」ばかりを愛好するのは如何にも見苦しい。「苦味の美味しさ」も理解出来るようになることが味覚の発達であることを思えば、何でもかんでも口溶けの良さを至高の価値基準として採用し、それ以外のものを「未熟」だとか「独り善がり」だとか、そういった乱雑な形容で腐して排斥するのは、人間の堕落を促進する危険な考えであると評すべきではないか。

 分かり易いということは、確かに或る意味では感動的な性質を備えていると言える。複雑怪奇な事象を鋭利な一言で「寸鉄人を刺す」ように明快に解説してしまえる人の才能には、物を知らない大衆を平伏させてしまう力が満ちている。切れ味の鋭い、簡潔で説得力に満ちた解説は確かに人心を唸らせるが、果たしてそのとき私たちの理解度は充分に高められているのだろうか。この世界に、簡単に片付くような問題は何一つ存在しないという立場から眺めれば、そうやって短い警句や箴言のような形で導き出された「言葉」に、精確な理解ということを期待するのは少し性急で、贅沢な態度であろう。簡単に分かり合えない存在であるからこそ、真実の伴侶と巡り逢えることが奇蹟として称揚されるのであり、同じく知識という問題に関しても、精確な理解の実現ということは滅多に成し遂げられることのない秘儀のようなものである。私たちはどんなことにも、自分の知力の及ばぬ「深淵」の領域が存在するという普遍的な事実を常に弁えておくべきだ。あらゆる努力が己の無力を痛切に実感することから始まるように、何かを学び、何かを知るという営為は己の「無明」を確信するという根源的な覚悟を抜きにしては成立しない。分からないものを排除するという口当たりの良い詐術に手を染めれば、その瞬間から私たちの人間的な成長は停滞し、未来の可能性は潰滅する。

 分かり難いものにこそ、眼を向けなければならない。無論、これは誰かを批判したり論難したりする為に発している言葉ではなく、飽く迄も自戒の為の命題である。私自身、難しい書物などを投げ出すときには、自分の読解力の不足を、作者の表現力や伝達力の不足に置き換えて、己の「無明」を否認しようとしてしまうことが多い。「自分が理解出来ないものには価値がない」という怠惰な先入観は、まさしく百害あって一利なしの精神的悪習であろう。寧ろ本当は「理解出来ないもの」の暗がりの奥底にしか、己の更なる成長を齎してくれる貴重な宝物は埋もれていないのである。知っているものを反復し、その滑らかな手応えに溺れている限り、新しい自分との邂逅を果たすことは出来ない。坂口安吾の言葉を借りるならば、こういうことだ。

「人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。満足は誰でも好むよ。けだものでもね」(坂口安吾「風と光と二十の私と」)