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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

現実と幻想の抽象的接合 「千と千尋の神隠し」をめぐる断想

マンガ・アニメーション

 金曜ロードショーで、久々に宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」を再見する機会に恵まれた。改めて見直してみても、やはり「傑作だ」という素朴な感嘆と新鮮な興奮が生まれ、既に知り尽くしている筈の筋書きや一つ一つの場面さえ、少しも退屈な印象を齎さずに此方の胸底へ染み込んでくる。この優れた長篇アニメーションが、世界史に記録されるべき珠玉のマスターピースであることは最早、疑いを容れない確固たる事実であると言える。冒頭から終幕までの間、総ての画面に繊細で注意深い芸術的配慮が行き届いていて、凡人には決して思い浮かばない奇想の断片が惜しみなく鏤められている。

 だが、そうした表層的な次元での奇蹟的な素晴らしさだけを、いわば骨董品の如く珍重して絶賛の言葉を羅列するだけでは、この作品の本質的な価値を言い表したことにはならないだろう。勿論、一つの芸術的作品は常に有機的な複合体として構成されているものであるから、単純に「表層=深層」の雑駁な二元論的構図で作品の秩序を腑分けしてしまうのは、適切な態度であるとは言い難い。或る表層的な断片の美しさが、物語の時空の最も重要な核心と結び付いているということは、芸術の世界においては少しも珍しい現象ではないからだ。

 この作品に関して、私が個人的に気に入っているシーンは幾つもあるが、此処では八百万の神様たちの集う温泉旅館である「油屋」(あぶらや)の労働の風景に就いて、取り留めもない感想を書き記しておきたいと思う。

 そもそも、子供向けの所謂アニメーション映画において、典型的な肉体労働の風景が一定の時間的な尺を与えられ、細密に描写されるということは、余り一般的な選択ではないように思う。無論、私の浅学菲才ゆえに知らないだけで、世の中には労働の光景を徹底的に描き尽くした傑作及び駄作が犇めいているのかも知れないが、往々にして、多くのアニメーションの主題は「冒険」か「恋愛」というカテゴリーに包摂されてしまっているのが現状であろう。コンビニのアルバイトの光景くらいは、現代的な生活と風俗の一端として点描されることもあるだろうが、この「千と千尋の神隠し」という作品における「油屋」の労働の描写は、殆ど快楽的な精密さで丁寧に紡がれており、単なる点描と評するには惜しい出来栄えに達している。

 幻想的で魅惑的な物語空間をわざわざ設えて、厖大な手間暇を費やして描き出す対象が派手な冒険活劇ではなく、油屋という架空の場所において営まれている旅館業の現場の或る一日であるという選択には、具体的な意図が介在していると考えるべきではなかろうか。腐れ神の放つ猛烈な異臭に堪えかねて口許を手で覆った千尋の態度に、「御客様に失礼だ」と注意を与える湯婆婆(ゆばーば)の姿など、完全に接客業の責任者の戯画に他ならないし、砂金を出して無理難題を押し通そうと暴れ回るカオナシは、顧客の立場に踏ん反り返って尊大に振舞い、無茶な要求を振り翳すモンスターカスタマーの姿そのものである。言い換えれば、油屋の労働のシーンは、現代の日本社会において日常的に見られる熾烈な資本主義的世界の写し絵として解釈することが可能なのだ。

 頗る大雑把な言い方をすれば、油屋の世界は、現実の社会の縮図であり、もっと端的に言えば「金儲け」の原理が何よりも重要な掟として貫徹されている世界である。その胡散臭くて身も蓋もない厳しい空間へ突如として抛り込まれた千尋の成長と、現実世界への回帰が、この作品を支える主要な筋書きである。引越の辛さに不貞腐れ、如何にも無気力な態度で両親の運転する車に揺られているときの千尋の姿と、ハクと共に銭婆の家から油屋へ戻った後の千尋の表情との間には、歴然たる風格の違いがある。つまり、子供から大人への成長を遂げる為の必要な過程として、彼女は油屋に代表される異界の秩序を潜り抜けた訳である。そのように解釈すれば、この作品が最も素朴な意味で「子供たちの為に創られたファンタジー」であることは直ちに理解され得るだろう。

 出典を明記しようにも記憶が薄弱で申し訳ないが、以前にインタビューの中で監督の宮崎駿氏は「家の中に閉じ籠もって、外で遊ぼうともせずに延々とテレビに齧りつき、録画した『となりのトトロ』を何度も何度も繰り返し見続けている子供」の姿を想像すると「ぞっとする」と述べておられた。監督の語ったものや綴ったものを繙いていくと、彼が所謂「アニメオタク」の世界とは対極的な観念の持ち主であることが、ありありと伝わってくる。彼は優れたアニメーションを作り上げる巨大な才能と強靭な意志の持ち主でありながら、アニメーションそのものに依存したり固着したりすることへの潔癖な嫌悪を併せ持っているのだ。彼は最も厳格な意味で「子供たちの為のアニメーション」を作っているのであり、その理想の到達点は恐らく「子供たちがアニメーションなど必要としなくなること」であるに違いない。彼が厖大な労力を費やして、無闇に生々しい労働の光景を描き出し、その枠組みの中に千尋が戸惑いながらも懸命に身を挺していくことを「必要な選択」として主題化していることを鑑みれば、彼の生み出すアニメーションが、子供たちの心を「幻想的な物語の揺籃」に幽閉することを目的に据えていないことは明白である。

 総てを終えた後で、千尋は元の退屈な世界に戻っていく。やっとの思いで助け出した両親は、油屋へ足を踏み入れる以前の状態と比較して何も変わっておらず、特別に優しくなることもなく、千尋の内なる心情を忖度しようともしてくれない。その意味では、油屋の特殊な時空を経由したことは、如何なる現実的な変化も解決も齎していないと言える。重要なことは、度重なる事件を通じて漸く勝ち得た油屋の人々(厳密には、人間ではないが)との繋がりも、完全に失われてしまうということである。千尋は油屋の人々との紐帯に固執しようともしないし、油屋の世界で見出した新たな発見に眼を奪われて、自分が本来所属すべき退屈な現実への帰還を拒もうともしない。夢を見ることは、現実の曠野を力強く生き抜いていく為の暫定的な手段に過ぎないのだと、監督は言っているのだろうか。