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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「恋愛」の危険で純粋な形象 新海誠監督「君の名は。」をめぐる断想

 幕張新都心イオンシネマで、今更ながら「君の名は。」(新海誠監督)を観賞してきた。実に印象深く心に残った作品であったので、今更ながら感想を書き留めておきたい。

 この作品は日本のみならず、国境を飛び越えて海外でも幅広く公開され、好評を博しているらしい。日本の現代的な風景を極めて精緻なアニメーションとして具現化した本作が、文化も生活も異なる海彼の人々にも受け容れられ、称讃を浴びるのは、一見すると奇異な現象に見えるかも知れない。実際、多くの国産アニメーションが日本文化の精髄のように異国の人々から絶賛される光景は今日、最早見慣れた景色には違いないが、それが一種のオリエンタリズム的な関心による賜物であると解釈するのは、一面的な見方であるだろう。少なくとも「君の名は。」という作品に関して言えば、重要なのは精緻に描き出された現代日本の細密な風景が喚起するオリエンタリズム的な、エキゾティックな魅力ではない。私見では、この「君の名は。」という作品は頗る抽象的なファンタジーであり、その抽象化された構造は普遍的な訴求力を宿している。抽象的であるとは、どういうことか? それは「君の名は。」が「恋愛」という主題を極めて抽象的なレベルで濃縮して提示してみせた作品であるという意味だ。

 この作品の主題が「恋愛」に存し、それを現実には有り得ないシチュエーションの中でいわば誇張して描き出したファンタジーであることは、誰の眼にも明らかな、端的な事実であると思う。だが、これは単なる恋愛物語であろうか? 確かに、単純で薄気味悪い、或る意味ではナルシシズム的な恋愛を描いた御伽噺であると一蹴することは容易い。例えば、主役である立花瀧と宮水三葉が互いに惹かれ合い、あそこまで劇しく求め合う理由は何だろうか? その具体的な過程が、説得力を持って充分に描き切られているだろうか? 私は、そうは思わない。だが、それは二人の惹かれ合う理由が明確でないことを論って、この作品のリアリティの欠如を断罪する為に述べるのではない。そうではなく、二人が惹かれ合う過程に具体的な意味など求めようがないのだ、という端的な事実を確認する為に、わざわざ指摘しているのである。

 「恋愛」と言われる一つの社会的な、或いは多面的な営為が、どのような構造を持っているのか、この段階で確認しておきたい。世の中に流布する様々な意見、そして私自身の乏しい実体験を踏まえて考えるならば、所謂「恋愛」のエートスを形作るのは「触れることが出来ないものに憧れる」という欲望の形態である。「触れることが出来ない」という条件は、倫理的な禁忌によって齎される場合もあるし、本作のように物理的な制約として齎される場合もあるが、その物語的な機能は同一である。「恋愛」という一つのエートス、或いはもっと端的に言って「ストーリー」は、互いに触れ合うことの出来ない対象同士が惹き寄せられること、そして最終的には結ばれること、これらの要件によって形成されている。

 だが、一般論として隔てられていた二人が万難を排して結ばれることは「恋愛」の最終的な成就である一方、「恋愛」の終焉そのものであるとも看做し得る。成就した恋愛は、つまり目出度く結ばれ合った二人は、それまでとは異質なフェーズに移行することを強いられる。一般的な言葉を用いるなら、それは「結婚」のフェーズである。「恋愛」のフェーズにおいては、隔てられていたものが結合するまでのプロセスが重要な主題となるが、「結婚」のフェーズにおいては無事に結ばれた二人が、その関係をどうやって未来永劫持ち堪えていくか、ということが喫緊の課題に据えられる。従って、これら二つのフェーズにおいては、求められるメンタリティの性質が全く異なっているばかりか、場合によっては積極的に対立する。

 「君の名は。」が露骨なほどに「恋愛」のフェーズだけを重要視した作品であることは明白である。最終的に二人は運命的な邂逅を遂げるが、その後の関係性がどうなっていったか、具体的な描写は一切存在しない。それは「君の名は。」という作品が、極端に「恋愛」という主題を抽象化して扱っている為で、その手続きを円滑に進めるには「結婚」のフェーズは余計な夾雑物でしかないのだ。

 改めて確認しておこう。私見では、この「君の名は。」という作品は徹底的に「恋愛」の構造だけを描き切っている。その意味では、立花瀧や宮水三葉というキャラクターの造形は副次的なものでしかない。無論、作品を単なる抽象的な構図の羅列として痩せ衰えさせない為に、描き出される風景は極めて精密で、登場人物たちの科白回しにも入念な工夫が施されている。だが、それらが副次的な水準に属する要素であることは覆らない。あの繁雑な設定と筋書き、瀧と三葉が互いに入れ替わること、彗星によって糸守町が潰滅的な被害を蒙ること、二人の入れ替わりに三年間の時間的な断層が存在すること、黄昏時の一瞬だけ時間的な断層が解消されること、こうした物語上の諸条件は総て、恋愛の構造を極限まで拡張し、肥大させる為の手続きとして機能している。簡単に言い換えれば、物語の中に現れる諸条件は総て「瀧と三葉を邂逅させないこと」を目的として組み立てられているように見えるのだ。そして、この「邂逅」を禁じる物語上の制約が、恋愛のエートスとパトスを限界まで高ぶらせ、強化するのである。

 物語の仕組み自体は、半ば御都合主義的とも言い得る錯綜した展開を持っていて、厳密に理解する為には時間が要るが、その本質的な主題は極めて明快であるということ、つまり、色々なややこしい物語上の制約や反転が存在しているにも拘らず、描かれているのは「恋愛」だけであるという極端な抽象性、これが「君の名は。」の広範な訴求力を支える要因ではないかと、私は思う。そして極端な言い方をするならば、この「君の名は。」が、恋愛の構造=原理を剔抉する抽象性を最後まで貫く為には、終幕の瀧と三葉の再会のシークエンスは不要であると思う。総ての条件が整ってしまった後で、二人が目出度く出会ってしまえば、そこからは総て「結婚」のフェーズとして語られてしまう。それは「恋愛」だけを主題に据えた「君の名は。」の極端な抽象性にとっては蛇足でしかない。寧ろ総てを一瞬の夢幻の如く忘れ去ってしまった方が、恋愛としての純粋性は大幅に高まり、黄昏時の山頂での束の間の邂逅が特権的な輝きを放って、観客の魂を撃ち貫いただろう。

 出逢ってしまえば、そこからは結婚=現実の単調な列なりが始まるだけである。無論、そこには恋愛と別種の「歓び」が存在する訳だが、少なくとも「君の名は。」という作品の本質が、結婚の「歓び」のようなものの降臨を要請しているとは考え難い。そもそも、この「君の名は。」という作品は、恋愛における「幸福」には関心を寄せていないのではないかと思われる。つまり、新海誠という優れた監督が描こうとしているのは飽く迄も「美しいもの」であって「幸せなもの」ではない。糸守町に彗星が落下して夥しい死者を出すという描写など、悲劇的な美しさの為ならどんな災厄も罪悪も受け容れようとするクリエイターの邪悪な側面の介入を感じさせないだろうか。

 「恋愛は美しく、結婚は幸福である」という公式が、一般論として妥当なものであるかどうかは分からない。少なくとも新海誠監督は「恋愛」を「極めて美しいもの」として描き出すことに執心しているように見える。その為には「結婚」に象徴されるような「現実」との回路を切断する必要が生じる。こうした心性の構造から私が想起するのは、三島由紀夫の小説「金閣寺」である。

 三島は「金閣寺」の美しさの理由を「厳密な一回性」に求めた。この「厳密な一回性」というのは、言い換えるならば「一度滅ぼせば二度と取り戻すことが出来ない」という性質を表している。有限であるからこそ美しい、滅びてしまうものだから美しいという価値観の形式は、結ばれずに消え去ってしまう関係だからこそ美しいという命題と必然的な仕方で結合する。それは一斉に花開いて瞬く間に散っていく「桜」を「美しいもの」として捉える日本的な審美主義に通底している。無限に存在するもの、殺しても幾らでも甦ってくるもの、それは日本的な「美」の範疇からは除外され、排斥される。

 「美しいもの」への固執は、新海誠監督の作品に共通する「精密で美麗な写実性」とも不可分の関係に置かれていると言えるだろう。彼は事物の美しさを描き出すことに卓越した才能を示す。その才能が物語の主題の次元においても「美しさ」に執着するのは論理的な必然である。彼は「美しい恋愛」を描き出すことに半ば宗教的で強迫的な信仰を捧げているのではないだろうか。三島の「金閣寺」においては、語り手の「私」は美の象徴である金閣を焼き払うことによって「生=現実」の方面へ歩き出すことを決意した。だが、新海誠監督は例えば「君の名は。」の凡庸な後日談を描くことに、その個人的な欲望を励起されるだろうか? それは「美しいものへの過剰な執着」を手放すことに他ならない。そうした転換は倫理的な決断として為されるだろう。無論、芸術に倫理が必要であるという固陋な偏見を、私は別に振り翳そうとは思わない。