読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「検索不能」という価値

 世の中、誰でも何でも分からないことはパソコンやスマホで手軽に「検索」して調べるのが当たり前になっている現代社会において、相対的に「検索出来ない情報」の価値が増大していくのは、考えてみれば至極必然的な成り行きである。誰かが「情報化」したものを手早く掻き集めていくのは、既に人間の仕事ではなくなっている。重要なのは「情報化されていないもの」を発見する嗅覚の鋭さであり、「検索すること」よりも「検索という新たな形式」を発明し、それを柔軟にグレードアップさせていく知性の機動力なのである。

 言い換えれば、これだけ情報化と検索の技術が発展した時代においては、知識の総量の豊かさを誇ることは必ずしも人間的な威信の発露には帰結しない。無論、知識を蓄え、教養を高めることは誰にとっても人間的な成長と完成の為の、不可避の条件であるには違いない。だが、皮相な情報を掻き集めるだけならば、私たちは既に自分の海馬に頼らずとも、デジタルな信号の大洋に総てを委ねることが出来る段階に辿り着いている。出来上がった情報、誰かの手で予め調理された情報、それらを手に入れること、蒐集すること自体には、特権的な意義は認められなくなりつつある。重要なのは、検索によっては手に入ることのない情報、事物、景色に触れて、それを自分の言葉で解剖してみることだ。

 デジタルな技術の異様な発達が刻々と加速度を高め、世界全体を貪婪な大蛇の如く覆い尽くしていけばいくほど、アナログな領域の価値が相対的に向上していくのは、少しも奇異な現象ではないし、私がわざわざ文章に書き起こさずとも、多くの人々によって既に承認された社会的な現実であるに違いない。出来上がったもの、完成したものの価値は、これから益々目減りしていくだろう。知識の豊かさが、既に誰かの手で完成された公理の暗誦に過ぎないのであれば、そうした「賢さ」は世間から全く評価されなくなっていくだろう。昔は(その「昔」の具体的な年代を明快に指し示すことは出来ないのだが)知識を得ること自体がとても困難な道程であったから、先人の遺訓を大量に脳味噌の襞へ畳み込んでいるだけでも充分に社会的な崇敬を集めることが可能であった。しかし、これだけ情報を検索する速度が向上し、その厖大なデータベースに誰でも容易くアクセスすることが可能になってしまった時代においては、そうした相対的な威信は一挙に残酷なほどの値崩れを惹起することになる。フラッシュメモリーと記憶の容量を競い合うような愚昧な蛮勇を誇示しても、単なる曲芸のようなものとしか受け取られない時代が具現化しつつある。

 そうなったときに、私たちはどのような生き方を求められるのか。明白に言えることは、私たちは誰でも「固有の省察」を掘り当てることでしか、己の価値を保てなくなるだろうという見通しである。この見通しに未踏の愉悦を感じるか、陰気な嫌悪を覚えるかは、その人の生き方の定義によって異なるだろう。これから、既定の価値を踏襲するだけの生き方が、社会的な説得力を喪失していくことは確実である。誰かが相応の労力を支払って「言語化した思想」を、複写機のように頭の中へ仕舞い込むだけでは、誰からも尊敬されないし、敬愛されないし、そもそもそんな人間に新たな価値を生み出す力が宿る筈もない。私たちは今後益々「自立」という人間的条件を勇気を振り絞って獲得し、保有することを社会の側から要請されることになる。自分なりの視点で物事を捉え、自分なりの解釈を磨き上げて、血の通った「定義」を幾つも拵えていく作業だけが、私たちの人生にオリジナリティを授けてくれる。

 言い換えればそれは「正解ではなく誤答を選べ」ということになる訳だが、それは感情的で暗愚な誤答の上に胡坐を掻いて開き直れ、という意味ではない。そのような安易な考え方で世の中を引っ掻き回す愚か者は、何処にでも氾濫している。私は正解だけを目指すような生き方、正解を手に入れることがゴールであると看做すような生き方を、未来の世界は決して容認しないだろうという予感と共に暮らしているのである。私たちは誤解することから出発するしかないし、誤謬の累積の上に自分の歪んだ人生を営んでいくしかない。私たちの眼球が超越的な「神」の視座を宿すことは有り得ないからである。世の中で日常的に口にされる「人は客観的に考え、論じるべきだ」という意見は、決して「神」を目指すべきだという挑戦的な言明ではない。それは誤謬の瓦礫の中で足掻きながら、少しでもマシな答えを作り出していくべきだという倫理的な覚悟の宣言なのである。私たちの考えは常に「誤謬」である。しかし、それでも一向に構わないのだ。重要なのは「愚かであること」を峻拒することではなく、「借り物の賢さ」を否認することである。愚物であることは、人間の生存の根源的な条件なのだから、少しも気に病む必要はない。それよりも他人の作り出した「正解」をカタログのように羅列して振り翳す「不毛な賢者」であることを、徹底的に恥じるべきなのだ。無論、これは自戒の為の論述である。