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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

肉声と省察(それは誰が語っているのか?)

 世の中には定説として認められている考え方や、或いは一般的な常識として流布している思想信条などが無数に存在する。だが、それらの多くは主語を欠いていて、誰の発案したものなのか、明確に見定めることが難しい。

 だが、どんな考え方にも、具体的な生身の人間の「肉声」が起源として関わっている筈である。例えば「旧約聖書」や「古事記」といった歴史的地層の遙か彼方で生み出された神聖な典籍の類にも、必ずそれを語り継いだり文字に起こしたりした生身の人間の「肉声」が反響し続けているのだ。そのことを私たちは日頃、涼しい顔で閑却し切っている。私たちは誰も日本国憲法の条文を起草した人々の私的な「肉声」に想いを馳せようとはしないし、そのことで特段の不便を感じることもない。学校で習う様々な科目の様々な教科書、そこに印刷されている内容に就いて、私たちはそれが中立的で公平な、つまり極めて客観的な記載の集積であると素朴に思い込んでいるが、実際にはそれも、具体的な生身の「肉声」を基盤として作られたものである。それが「肉声」である以上、そこに絶対的な超越性のようなものを想定することは認められない。

 こうした事実に充分な注意や関心を払わずに生きることに、私たちの多くは慣れ切っているのではないだろうか? だからこそ、私は長い間受け継がれてきた「伝統」や、巷間に広く流布する「常識」や、絶対的な規範としての「法律」の内容に関して、個人的な思索を行き届かせようともせずに、唯々諾々と従って平気な顔をしている。私たちはそれらが「可変的なもの」であるという事実に眼を向けない為に、受動的で保守的な態度を決め込むことにすっかり適応してしまっている。だが、どんな記述も言説も、そこには必ずそれを発した個人的な主体の偏った主観が関与しているのである。それを無批判に受け容れることは、私たちの思考が醜悪なほどに錆びついていることの証明に他ならない。

 重要なのは、どんな意見も法律も具体的な誰かの「肉声」なのだという素朴な事実を閑却しないことである。但し、それは法律や常識を蔑ろにしてもいいという不遜な態度を称揚することとは違う。どんな問題に対しても無闇に気後れせず、きちんと自分の頭で考え、思索の隧道を掘削し続けていく為には、どれほど立派に見える言説であっても、それが個人の肉声の集積である以上は十中八九、何らかの偏倚や歪曲が関わっているに違いないということを、素朴な摂理として弁えていなければならない。そうしなければ、私たちは実に容易く強権的なイデオロギーの繰り出す冷たい論理に屈服させられることになる。いや、本当は止むを得ず屈服させられているのではなく、自らの無知によって屈服しているだけに過ぎない。

 どんな言説も具体的な個人の「肉声」を揺籃として育まれ、社会に流布されているのだという原理的な事実を学び、把握することは、言い換えればあらゆる事物や言説の「歴史性」に眼を開くということでもある。「歴史性」という観念は無論、その本質的な性格において、「永遠の真理」という妄想的な理念に鋭く対立する。無限に正しい真理など有り得ず、どんな考え方も歴史的な具体性の積み重ねの上に「暫定的に」形成されている仮象に過ぎない、という認識が「歴史性」という観念の最も重要な特質である。「歴史性」の観点に立脚する限り、「永遠の真理」などというスローガンが非常に独善的で滑稽な御題目に過ぎないことは、直ぐに喝破し得る素朴な問題である。しかし、実際にこの世界、この社会で生きている私たちの歴史的な「実存」において、そうした崇高なスローガンの欺瞞に絶えず敏感で敵対的な存在として自らを規定し、練り上げることは少しも容易ではないし、素朴な問題でもないのが実態である。

 教科書に綴られた知識や、法律によって定められた事物の善悪、そういったものが歴史的な経緯を踏まえて生み出された「肉声」の或る透明な表現であることを知るだけでは、私たちはそれらの孕む「欺瞞」に就いて批判的な検討を加える為の力を獲得出来ない。つまり、或る認識や言説の歴史的な相対性を指摘するだけでは、そうした歴史的遺産の改革や訂正に辿り着くには不充分なのだ。或る事物の歴史性を理解する為には、私たちは実際にその事物が長い歴史の中で辿ってきた具体的な推移と経緯に関する知識を確保せねばならない。だからこそ、歴史を学ぶことには生産的な価値が宿るのである。

 歴史が失われるとき、私たちは同時に事物の「歴史性」を理解することが出来ない状態に閉じ込められる。或る事物の現況が、束の間の結晶のようなものに過ぎないことを忘れ、それが永遠且つ普遍的に存在するかのように誤解してしまうようになる。それが私たちの批判的な思考力を麻痺させ、現実に対する受動的な隷属を不可避の宿命のように受け止めさせることになる。そういうものなんだから、仕方ないのさ、という見え透いた諦観に沈み込み、自分の頭で考えるという極めて基礎的で重要な習慣を抛棄するようになる。それは人間的知性の度し難い堕落の形態に他ならない。「肉声」を忘れる者は「肉声」で語り、論じる力を奪い去られる。だから、ドナルド・トランプのような独裁者に投票し、彼を大統領の地位に押し上げることを「正義」であると錯覚してしまうのだ。私たちは歴史を学ぶことから始めねばならない。歴史だけが、私たちの思索を奴隷の閉塞から救済する唯一の方法なのである。