サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「沖縄」という政治的な場所 3

 前回の続きを書く。

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 前回の記事では、車椅子の青年が位置付けられている文学的な役割に関して、一つの問いを設けた。つまり、車椅子に乗らなければ自力で移動することの難しいアメリカ人の青年の形象を通じて、私は「何もしないことを命じられる存在とは何者なのか」という命題を抽出した訳である。

 「何もしない」ということを命じられるということは、どのような存在であると考えられるだろうか。第一に思い浮かぶのは、社会や他人に何らかの害悪を及ぼすような「危険な存在」である。「危険な存在」であり、尚且つ制御することが不可能であるような存在に対しては、人や社会は拘禁などの制限を加えることで、想定される不幸や損害を減殺しようと試みるのが普通であろう。

 だとしたら、車椅子の青年とその母親は、危険な存在なのだろうか? 例えば青年の母親の「病」に就いて、次のような記述が、この作品には登場する。

「母の場合は、神経が立ってくると、顔の左半分がこわばりついてくるんです。目や口が動かなくなる。左側から見ると、割れかけの花瓶みたいに見えます。見た目はかなり異様ですが、それが何か致命的なものにつながることはありません。一晩眠れば、もとに戻ります」

 こうした症状の包摂している「意味」に就いて考えるのも一興だが、ここでは深入りしない。代わりに着目しておきたいのは、彼女は決して車椅子の青年の「附き添い」でも「保護者」でもなく、寧ろ彼女自身が息子と同じく「禁じられた存在」としての待遇を受けているという点である。

 彼らが自らの意志に基づかない「休暇」を強いられているのは、つまり「自発的な行動を起こさないこと」を命じられているのは、彼らが何らかの意味で「危険な存在」であるからだ、という仮説は、それほど強引な理路に則っている訳ではないと思う。彼らは、その見た目の身体的な条件とは裏腹に、何らかの危険な要素を、その存在の内側に潜在させている。だからこそ、彼らは超越的な他者、或いは相対的な強者としての「健康な人間」たちの判断に基づいて、その居場所を定められ、主体的な判断を下す権能を剥奪されているのである。

 だが、彼らは何故、危険な存在であると目されているのだろうか? その内容に関する具体的な記述を、この作品の内部に求めることは出来ない。何故なら、私が言っていることは抽象的で象徴的な解釈であり、端的に言って「私的な暴論」に過ぎないからだ。しかし、そのような「暴論」を通じて、作品の世界に立体的な解釈の余地を切り拓くことは、決して無益な作業ではない。

 彼らの危険性を直接的に立証するようなものはない。だが、例えば母親の「病気」に関して言えば、その危険性の「残響」のようなものを嗅ぎ取ることは、少なくとも不可能ではない。

「神経の病気というのは、千差万別なんです。原因は同じでも、結果は無数です。地震と同じですね。エネルギーは同じでも、作用する場所によって生じる現象は異なってきます。島がひとつ消えてしまうこともあれば、島がひとつ生まれることもある」

 ここから何らかの情緒的な「爆発」のようなものの痕跡を読み取るのは、思い込みが強過ぎるだろうか。それが具体的にどのような「爆発」であったのかを明示的に語る為の根拠を、私は自分の掌中に収めていない。しかし、前段で述べた「危険な存在として封じられた母子」という仮説との整合性を考慮するならば、恐らくそれは「家族というシステム」を破綻へ導きかねない「危険な現象」であったに違いないと推測される。

 「危険な存在」であるがゆえに「自発的な意志に基づかない休暇」の状況へ拘禁された車椅子の青年は、語り手の「僕」との対話において「システム」に関する言及を行なう。

「さっき分業システムと言いましたが」と彼は続けた。「分業というからには、僕らにも僕らなりの役割みたいなものがあります。ただ与えられるだけの一方的な関係ではない。何と言えばいいのかな、僕らは、何もしないことによって、彼らの過剰さを補完しています。バランスをとっているんです。彼らの過剰さが生み出すものを、言うなれば、癒しているわけです。それが僕らの側の存在理由です。僕の言っていることがわかりますか?」

 この記述に関して、私は過去に幾度も解釈を試みたことがある。しかし、この青年の発する観念的な科白から、明確な意図を汲み出すことに成功した例はない。懲りずに、粘り強く考察を重ねていきたいと思う。

 危険な存在でありながら、彼らはいわば「飼い殺し」の状態に置かれている。言うまでもないことだが、単に彼らが危険で害悪を齎す存在であるのならば、それを支配し得る権力の持ち主たちは「抹殺」という強硬な手段を選択しても構わない筈である。しかし、そのような残虐な措置が敢えて選択されないのは、青年の言葉を信じるならば、彼らが「役割」を持ち、「存在理由」を持っているからである。彼ら母子は「何もしないことによって、彼らの過剰さを補完」する存在として位置付けられている。そうであるならば、彼らの機能の停止は、システムの円滑な機能の為には必要な条件であるということになる。

 この場合の「システム」という単語が「家族」を意味していることは、青年の発言を踏まえる限り、明白であると言えるだろう。

「家族というのは不思議なものですね」と彼は言った。「家族というのは、それ自体が前提でなくてはならないんです。そうじゃないと、システムとしてうまく機能しない。そういう意味では、僕の動かない脚は、僕の家族にとってのひとつの旗じるしのようになっています。多くのものごとが、僕の死んだ脚を中心にして動いています」

 「家族というのは、それ自体が前提でなくてはならない」という青年の科白は一体、何を意味しているのだろうか。それは「家族」というシステムが、何らかの明確な目標に向かって組織化された一種の「プロジェクト」のようなものではなく、それ自体の「存続」の為に活動するウロボロスのような循環的時間性を備えているという意味だろうか? その観点から考えるならば、彼ら母子は「健康な人間」=「効率的な人間」たちが生み出す「過剰さ」を軽減する役割を担うことで、システムの再帰的な存続に貢献しているということになる。

 或いは、彼の「旗じるし」という言葉を考慮に入れるなら、青年の役割は「家族」というシステムの象徴的な統合に存すると看做すことも可能であろう。それは、そのままでは瓦解してしまいかねないシステムの「過剰さ」を解消することによって、システムの存続に寄与するということである。(次回へ続く)

めくらやなぎと眠る女

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