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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「沖縄」という政治的な場所 5

社会 文学

 今回で連載は五回目である。思いのほか書き終わらず、考究が長引いている。

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 今回は、作品の掉尾に置かれた車椅子の青年の独白の引用から始めたいと思う。

「ときどき僕は夢を見ます」と車椅子の青年は言った。その声は、どこか深い穴の底から這い上ってくるような奇妙な響き方をした。「僕の頭の内側で、記憶の柔らかな肉に、ナイフが斜めに突き刺さっています。とても深く刺さっています。でもべつに痛くはありません。重みもありません。ただ突き刺さっているだけです。僕はそれをどこかべつの場所から、他人事のように眺めています。そして誰かにそのナイフを抜いてもらいたいと望んでいます。でも誰もそんなナイフが僕の頭に刺さっていることを知りません。僕は自分でそれを抜こうと思うのですが、僕は自分の頭の中に手を入れることができません。それは不思議な話です。突き刺すことはできたのに、抜くことはできないんです。やがてそのうちに、いろんなものがだんだん消え失せていきます。僕自身も薄らいで消えていきます。そしてあとにはナイフだけが残ります。ナイフはいつも最後まで残るのです。まるで波打ち際に白く残された古代生物の骨のように……。そういう夢です」

 この記述から、過ぎ去った戦争の日々の禍々しい残響を聴き取るのは、恣意的な解釈に過ぎるだろうか。だが、車椅子の青年が属するシステムを「日本」という国家として解釈するという本稿の前提に立脚するならば、日本にとっての忘れ難い「悪夢」を凄絶な「敗戦の記憶」という風に読み替えるのも決して不当な判断ではあるまい。

 ナイフに関する青年の繰り返される夢想は、どのような意味を秘めているのだろうか。戦争と絡めて考えるなら、それは過去に日本という国家が浴びせられた夥しい惨劇の記憶と結びついていると看做すことが出来る。「突き刺すことはできたのに、抜くことはできない」という述懐から、私が特別に想起するのは「核兵器」の惨禍である。広島と長崎に落とされた原爆の凄まじいダメージ、放射能による汚染の深刻な災厄は、福島原発の悲惨な事故の記憶を生々しく脳裡へ刻みつけている現代の日本人にとっても、決して縁遠い事件ではない。核兵器を使用することは容易いが、その災禍を完全に払拭することは極めて難しい。その不可逆性を、日本という国家が「悪夢」として記憶し続けるのは、必然的な反応であると言えるだろう。

 だが、重要な論点は、それだけではない。少なくとも、この作品において青年は自ら「ハンティング・ナイフ」を求め、実際にそれを手に入れている。彼は自分の「記憶の柔らかな肉に、ナイフが斜めに突き刺さって」いる夢を繰り返し眺めていながら、そのナイフを自ら欲望するのである。これは何を意味しているのだろうか? 報復だろうか? 自分に与えられた癒やし難い痛みを、憎悪を、他者へ向けて反射しようと試みているのだろうか?

 あらゆる事物が消え去った後も、永遠に残存し続ける「ナイフ」のイメージは、核兵器が齎す放射能の災禍を想像させるに相応しい構造的条件である。そして日本は、世界で唯一の被曝国として、核兵器の保持と使用を自らに禁じてきた。「ナイフはいつも最後まで残るのです」という青年の独白は、核兵器の畏怖すべき強烈な威力を指し示しているように聞こえる。その禍々しい痛切な記憶を持っていながら、何故、青年は「ナイフ」を求めるのか? そして実際に、それを手に入れてしまったのか?

「変な風には考えないでください。僕はこれを使って誰かを傷つけたり、あるいは僕自身を傷つけたり、そういうことをするつもりはまったくありません。僕はただある日、何かの加減で、とつぜんどうしても鋭いナイフがほしくなったんです。何かそう思うきっかけがあったのかもしれない。でもそれが何だったか、どうしても思い出せません。ただ、無性にナイフがほしくなった。我慢できないほどほしくなった。それだけです。それで僕は、通信販売を探して、このナイフを注文しました。僕がこのナイフをポケットに入れていつも持ち歩いていることを、誰も知りません。母親も知りません。僕だけの秘密です。今のところ、知っているのはあなただけです」

 ナイフを手に入れること、それを絶えず携帯していることは誰にも言えない「秘密」である。それは何故、誰に対しても伏せられているのか? そして何故、東京からの旅行者である見ず知らずの「僕」に限って、その「秘密」は開示されるのだろうか?

 この問いに対する答えの導き方は恐らく、次のようなものだろう。その「秘密」は、システムの内部に所属する人間に対してのみ黙秘されるべきものであり、部外者に対しては開示しても不都合が生じない性質を備えている、ということだ。言い換えれば、青年が「ナイフ」を手に入れることは、システムの存続に対して不利益を齎しかねない選択なのである。青年がシステムに対して齎し得る「災厄」とは何か? 彼の役割を「政治的に無力であることによって生じる政治性」の行使に求めるのだとすれば、答えは必然的に導出される。即ち、青年が「具体的な政治力」を手に入れ、保持すること、それがシステムの「危機」を招くということである。

 彼が政治的な実権を掌握すれば、システムの象徴的な統合は妨げられ、必然的に「家族」の相互的な結束と円滑な運営は破綻を来す。だから、彼が「ナイフ」を所持していることは厳格に隠匿されねばならない。言い換えれば、彼は決して自ら「ナイフ」を所持しないことによって、システムに対する積極的な貢献を果たしているのだ。これは、如何なる具体的な事態を指し示しているのか? 言うまでもなく、日米同盟における政治的な構造を指しているのである。

 つまり、事態は重層的な解釈を許容しているのだ。象徴天皇制によって代表される「政治的に無力であることの政治性」は、日本国内の「内政」における政治的原理であると同時に、日米同盟という「外交」における政治的原理としても作用している。日本が象徴的権力の原理を手放せば、日米同盟の堅牢な構造は直ちに揺らぎ始めることになるだろう。システムの内部において、政治的に無力な「象徴」として存在することは、自発的な意志=「主体性」の抛棄を通じて何らかの政治的な利得を確保するということであり、その利得は「自らナイフを振り翳す」ことによっては決して得られない種類の「利益」である。あらゆる政治性から切断されているということは、その存在に対して奇怪な「聖性」を宿らせる。それは世俗的なものの超越を意味する。

 政治的に無力であることが「聖性」の顕現を齎す。自分で書きながら、私はこの命題が切り拓く認識の射程の全貌を把握していない。一旦、今回の連載は終了して、別の記事で改めて考察を深めてみたい。