サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

政治的に無力なものの「聖性」

 政治的な実権を剥ぎ取られた存在が、それゆえに強大な政治的権威を保持するようになるということは、我が国においては、それほど奇怪な事態ではないように思われる。少なくとも、坂口安吾が「堕落論」の中で指摘しているように、日本古来の「天皇」という制度には、そのような政治的無力化ゆえの「聖性」が絶えず付き纏っている。

 日本では、政治的な権威の頂点と、政治的な実権の中枢との間に、構造的な乖離が生じることは、歴史的な伝統に他ならない。現行の日本国憲法の規定だけを取り上げて、そのように言う訳ではない。江戸時代の幕藩体制、それはまさしく「朝廷」と「幕府」との重層化された政治的秩序ではなかったか? 征夷大将軍と雖も、天皇の威光の前には平伏せざるを得なかった。しかし、日本国の政治的な実権が将軍家の掌中に握られていたことは、明白な事実である。

 もっと時代を遡行してみても、そうした権力の重層性という事態は変わらない。王朝期、つまり武士階級による政治体制が確立される以前の時代においても、政治的な実権を掌握していたのは天皇ではなく、藤原氏を筆頭とする摂関家の公達であった。結局、日本において政治的に対立し、相剋していたのは武家と公家であって、時代の変遷に関わらず、天皇は常に政治的な「威信」としてのみ存在した。例えば江戸時代末期の倒幕運動を経て設立された明治新政府は、将軍を廃する代わりに天皇を国政の頂点に位置付け、権力を集中させようと試みたが、実質的に政府を動かしていたのが薩長土肥の藩閥に属する有力者たちであったことは広く知られた事実であろう。鎌倉幕府を打倒し、天皇による「親政」を布いて、朝廷の権威を復興しようと企てた後醍醐天皇建武政権も、束の間の栄華を足利尊氏の造反によって打ち砕かれ、灰燼に帰した。この国では、政治的な権威と実質的な権力との全面的な合致は、常に妨げられ、破産させられるのが歴史的な慣例なのである。

 だが、政治的に無力である象徴的存在が、何故、実質的な権力者たちによって要請され続けるのだろうか? もっと言えば、何故、この国では政治的権力の独裁的な一元化が絶えず瓦解するのだろうか? それはドイツやイタリアで跋扈した所謂ファシズムとは異質な原理に依拠している。或る超越的な権威を掲げ、それを隠れ蓑にして物事を進めるという日本的な伝統は、つまり「権威」と「実権」との分離を絶えず要請する日本の政治的常套は、どのような経緯を踏まえて形成されたのだろうか?

 天皇という絶対的な存在を象徴化すること、或る崇高な超越的存在を信じること、つまり天皇という生身の存在に一種の「神格化」を施すことは、この国では長らく伝統的な統治手法として重んじられてきたし、その過激な強化が近代において昭和軍国主義の破滅的な暴走を招いたことは周知の事実であるにも拘らず、未だに天皇というシステムが廃絶される公算は極めて小さい。それは日本という国家の統治において、天皇そのものが重要であると言うより、天皇という象徴と内閣という政治的実権との乖離が、どうしても必要とされている為であろう。

 言い換えれば、天皇という超越的な存在を措定することによって、私たちの国家の統治者たちは、巨大な政治的利益を獲得しているということなのだ。その利益は、如何なる特質を孕んでいるのだろうか?

 天皇の超越性は、天皇が政治的に無力であることを通じて獲得される。若しも天皇が政治的な実権の掌握に成功すれば、彼は何らかの形で政治的に「偏向」せざるを得ない。そのとき、彼は政治的な闘争の経緯に基づいて、国家の内部に分断を発生させてしまうことになる。言い換えれば、特定の政治的な派閥との間に強固な癒合を形成せざるを得なくなる。それは天皇の政治的な超越性を毀損する事態に他ならない。天皇は如何なる特定の派閥とも結び付いてはならない。特定の派閥との癒合は直ちに、天皇の超越性という社会的な幻想を崩壊させるだろう。

 如何なる政治的な偏向とも無縁の「神聖な存在」としての天皇というイメージは、人民を統治する上で、極めて強力で特権的な威信を発揮する社会的装置である。それは不偏不党の超越性ゆえに、あらゆる種類の存在、たとえそれが卑賤な存在であったとしても、総ての存在に対して開放されている。この無際限な開放の幻想が、あらゆる種類の存在を間接的に結び付けるハブのような機能を、天皇に附与するのだ。そして、その政治的機能の魅惑的な価値に吸い寄せられるように、実務的な政治家たちが蝟集する。

 そうした天皇の崇高な聖性に就いて、もっと深く論じてみたいのだが、生憎、基礎的な勉強が不足している。Amazonで網野善彦の「異形の王権」と「無縁・公界・楽」(いずれも平凡社ライブラリー)を注文した。今読み進めているジョン・スチュアート・ミルの「自由論」(光文社古典新訳文庫)を通読したら、読解に着手しようと考えている。