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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「自由主義」という見果てぬ夢

 ジョン・スチュアート・ミルの「自由論」(光文社古典新訳文庫)を少しずつ読んでいる。マルクスの「共産主義者宣言」(平凡社ライブラリー)と一緒にAmazonへ注文したのに、他の本を読むことに時日を費やして、居間へ店晒しにしていたのを漸く繙き始めた次第である。

 流石に古典新訳文庫と言うべきか、訳文は非常に平明で驚くほど読み易い。古典的な文献に付き纏う学術的な権威の臭気が感じられず、身近な人間から直に講義を受けているような寛いだ雰囲気が行間に滲んでいる。

 自由という言葉、或いは観念に関する精確な理解に達することは、恐らく誰にとっても困難な作業であるに違いない。しかし、世界的に吹き荒れつつある反動的な保守化の潮流が、殆ど無視し難い脅威として私たちの暮らす社会に押し寄せ、殺到しつつある現況を鑑みるならば、単なる抽象的な観念として箪笥の抽斗へ仕舞い込む訳にもいくまい。私たちは自由という言葉を当たり前のように使い、すっかり手垢に塗れた理念のように軽々しく濫用することに慣れ切っているが、その定義を正面から問われて澱みなく答えられるほど、日頃から充分に思索を積み重ねていると言えるだろうか?

 私たちはドナルド・トランプの差別的で保守的な言辞に半ば呆れ、半ば慄然としているが、だからと言って、彼のような政治的手法を批判する為の明快な理路を保持している訳ではない。私たちは「自由」という観念が何故発生し、幾つもの重要な歴史的闘争の厳しい審判に堪えて、今日まで曲がりなりにも維持されて来たのか、その一連の経緯に対する深刻な無理解の中に暮らしている。

 そういった観点に立てば、ミルの「自由論」という古典的な著作に自分の頭脳を虐使して取り組むのも、決して衒学的な趣味の一環に留まるということはないだろう。寧ろ、私たちは改めて自由主義という理念の本質的な機能や役割に関して、認識を新たにし、活発な議論を戦わせるべき時代に直面しているのだ。

 だが、それはミルの「自由論」に綴られている様々な見解や学説を、聖骸布のように有難がって祀り上げるべきだという意味では断じてない。最も大切なのは、ミルという一人の学者が自らの頭脳を駆使して「自由」という難問に付き纏う種々の迷妄を払い除けようとする、その誠実で知性的な努力に、自分自身の脳味噌を虐使して伴走することなのである。何故なら、ミルは社会的に固定化された真理というものへの敬虔な崇拝を、自由という理念の宿敵として慎重に斥けているからだ。

 彼は何らかの明示された真理を受け容れることに、或いはそれを絶対的な規矩として信奉することに関して、非常に慎重で注意深い姿勢を示している。一見すると正しく聞こえるような意見も、時代や地域が異なれば悪しき誤謬として論難されることは少しも不当な現象ではない。こうした問題は、誰もが理窟の上では心得ているかも知れないが、実際に生活のあらゆる場面に対して、こうした原則が完璧に適用されることは殆ど皆無に等しいと言っても過言ではない。誰もが意見には多様性があり、個人の固有性は実に幅広い性質を備えており、それを一律の基準で拘束することは困難であるし不当でもあると、尤もらしい理窟としては理解しながら、そうした倫理を実生活において完全に実行しようとは考えないのだ。それは、理窟では充分に理解しているが、実践においては不都合が生じる、といった政治的な判断の結果ではなくて、単純に「意見の多様性」を根源的な次元において信頼していない為に導き出される結果であると私は思う。

 私たちは、自分の個性を重んじたり、自由を求めたりすることに対して貪欲に振舞いながらも、知らず知らず、自分の生まれ育った環境の常識や、自分が所属する組織の規範を受け容れることに就いては、随分と無防備な生き物である。しかも、私たちは多数決の原理に慣れ切っていて、大多数の人間が正しいと認める意見に対しては、極めて容易に屈従するという性質を備えている。そして少数の頑迷な異端者たちが、大多数の認める壮麗な正義に向かって牙を剥いたり吼え立てたりするのを目の当たりにすると、正義の美名の下に残虐な鉄鎚の一撃を下すことさえ、甘美な愉悦と共に嬉々として成し遂げてしまうのだ。

 民主主義という政治的な制度が行き渡れば行き渡るほど、私たちの社会が「合法的な独裁」の高圧的な専制に浸蝕される危険が増大していくのは、歴史の皮肉な絡繰である。ファシズムというのは、民主主義、国民主権の美しい理想が現実の血肉を与えられるほどに発症の虞が高まる重篤な病であって、それは中世の封建的な支配体制の瓦解と引き換えに私たちに強いられた深刻な持病なのである。デモクラシーとファシズムは、同じ社会的=政治的思想の土壌から花開いた双子の兄弟であり、その意味でデモクラシーがマジョリティの権力を承認する制度として維持される限り、両者の因果関係を完全に断ち切ることは不可能である。

 ミルは、多数派によって支持される強力な意見であっても、それが総ての反駁と徹底的に向き合い、切磋琢磨し、あらゆる試練に堪え抜こうと努めない限り、真理の名には値しないという考え方を表明している。いわば弁証法的な考え方である訳だが、デモクラシーと不可分の関係にあるマジョリティの優位は、こうした弁証法的な手続きに対して常に敬意を払うとは限らない。それは国家の統治、集団の統治という重責には必ず附随する難問であり、真の意味で「平等」と「公正」の理念を貫徹することは誰にとっても不可能に等しい難事である。自由主義の理想は今も、見果てぬ夢のままなのだ。