サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

戦後の焼け野原を疾駆する「バケモノ」の思想 坂口安吾「堕落論」について

 今日は坂口安吾の「堕落論」に就いて書くことにする。

 このブログでは、過去にも幾度か「堕落論」に言及したことがある。中学生時代に初めて手に取り、茹だるような夏の退屈な午後に繙いた「堕落論」の衝撃は、今も私の胸底から、その轟くような残響を掻き消さずに留めている、と言ったら、大袈裟に過ぎるだろうか。或いは如何にも文学的な誇張の臭みが強過ぎるだろうか。しかし、実際に私は坂口安吾の「堕落論」から、容易には汲み尽くし難い精神的興奮を与えられたのであった。それはまさに、私という個人の主観的な世界に限って言えば、天啓にも似た僥倖であり、至福であったのだ。

 「堕落論」という風に銘打ちながらも、坂口安吾の奔放な筆鋒は様々な話柄に照準を次々と切り替えながら、果敢に滑り続けていくので、決して体系的で明快な理論のようなものを期待すべきではない。そもそも、彼は安手の学者のように踏ん反り返り、象牙の塔から下界を眺めて、悠然と葉巻でも吹かしながら、衆生の信奉すべき「真理」を語ろうなどと賢しらに考えている訳ではないのだ。彼は寧ろ「陋巷に在り」(©酒見賢一)とでも称すべき世俗の、巷間の学者であり、極めて破天荒で生々しい思想家なのであり、彼の言説は総て彼の血腥い生き方と切り離し難い。

 極めて明晰な頭脳と、極めて野卑で破滅的な性向との、奇妙な結合が、坂口安吾という文学者の最大の持ち味であり、魅力の源泉である。そして彼は、尤もらしい道徳的な教訓の類を歯牙にも掛けない、肉体的な反骨精神を生涯、手放さなかった。

 だからなのだろうか、彼の文章に鏤められた「理路」は決して一本道ではなく、整然とした秩序を与えられている訳でもなく、彼方此方で複雑に枝分かれを繰り返し、果たして何が結論なのか、それを明瞭に推し量ることさえ容易ではない。けれども、そこには誠実な思索と省察の輝きが浸透しており、機敏に活動する精神の生々しい息遣いが随所に行き渡っている。

 彼は単に「堕落」を推奨した訳ではない。「政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である」と劇しい口調で断定しながらも、人間が「政治的な救済」に縋ろうとする已み難い欲望の持ち主であることにも、きちんと目配りしている。そもそも、彼は「こうあるべきだ」という人工的なイデオロギーによって事物を裁断することに、根源的な嫌悪と敵愾心を燃え上がらせているのであり、従って彼が「堕落論」を通じて何らかの具体的な方針や処世訓のようなものを世間に訴えようとした訳ではないことに、私たち読者は充分な注意を払わねばならない。彼は「政治による救い」を「愚にもつかない物」として斥けたが、それを「政治的救済は無意味である」という一つの完成された命題に置き換えて拝み倒すのは本末転倒の振舞いである。彼の鋭利な眼差しは、政治によって救われることのない人間の度し難い性向にも、にも拘らず政治に希望を託そうとする人間の哀切な衝動にも、等しく注がれていたのだと、私は信じる。

 坂口安吾にとって「堕落すること」は「人間であること」と同義であったのだと思う。堕落、つまり既成の社会的秩序から逸脱し、落魄してしまうこと、それこそが人間の「自然な姿」なのだと信じていたのだ。だが、一方では、そうした堕落が決して完全に徹底されることはないだろうという見通しも、彼の内部には宿っていた。坂口安吾という偉大な「思想家」の真骨頂は、常に相反する両極の狭間を揺れ動き続ける思索の「肺活量の大きさ」に存するのである。

 

堕落論 (角川文庫クラシックス)

堕落論 (角川文庫クラシックス)