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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

人間本来無一物

文学

 車谷長吉の「赤目四十八瀧心中未遂」は、今まで読んだ中では屈指の精神的衝撃を、私の心に齎した異様な小説であった。作者の数奇な人生遍歴が彼方此方に投影されているらしいが、彼が「私小説」という文学的理念に強烈な執着を示すことで知られた作家だからと言って、事実と虚構の境目を厳密に確定しようなどと試みるのは無益な企みであるだろう。

 この小説の全篇を貫く「苦界」の感触は、物語の世界に異様な迫力を附与する根源的な活力となっているが、一見すると「地獄巡り」のように感じられる「私」の彷徨が、単なるゴシップめいた興味を掻き立てるだけならば、「赤目四十八瀧心中未遂」は畢生の傑作にまでは昇華し得なかっただろう。車谷には「贋世捨人」という作品もあったように記憶するが(生憎、私は未読である)、これは彼の文業を支配する中心的な観念に与えられるべき名称としては最適のものである。彼は「無一物」の境涯に異様な憧憬を懐きながらも、決して本当の意味で「無一物」の窮境まで堕落することが出来なかった。それは坂口安吾が「堕落論」に書き付けた一文、即ち「だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる」を想起させる状態である。そこに両者の思想的な親近性を読み取るのは強ち牽強付会とは言えない。何故なら、坂口安吾も若き日には、悟りを開くことに憧れて「世捨て」に対する強靭な衝動に駆り立てられていた人物であるからだ。

 だが、本来ならば「無一物」の境遇というのは、俗人が望んで辿り着ける境遇ではないし、殆どの人間は「無一物」の境遇を殊更に希望して、その窮境へ漂着する訳ではない。「無一物」に憧れるということは、本当に「無一物」の生涯を強いられている苦界の住人たちにとっては嘲笑すべき、或いは唾棄すべき虚妄の情熱に過ぎないのである。両者の根源的な断絶は、語り手である生島と、極道の兄貴の為に風俗嬢として売られる覚悟を決めたアヤちゃんとの訣別の場面によって、読者の眼前へ明瞭に浮かび上がることになる。

 結局、お前は「贋世捨人」ではないか、という痛烈な告発を、アヤちゃんは異様な覚悟を含んだ眼差しと、咄嗟の決断を通じて生島に叩きつける。そして突き放された生島は、苦界を去って尋常の「俗世間」へ帰還していく。それは確かに痛烈な告発の結果に他ならないが、その告発を愛情の一種として解釈するのも、それほど傲慢な選択ではないと信じたい。「世捨てへの欲望」という奇矯な趣味に精神を蝕まれて、現実を見失いかけた男に、お前は俗世の人間なのだから、俗世に戻りなさいと諭すことは、深甚な憐憫の輝きに他ならない。だが、その憐憫が齎す喪失感の恐るべき底知れなさに読後、私は戦慄を禁じ得なかった。彼の眼前で、地獄の扉は堅く閉ざされてしまった。残ったのは、静謐な暗闇だけである。何もかも所詮は夢に過ぎなかった、という残忍な結末は、私の好みに合っている。