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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「死者の眼差し」に潜む「明晰」

 大岡昇平の「野火」は不穏な小説である。その不穏さは、題材の異様さ、つまり敗色濃厚な南方戦線への従軍経験という、誰の身にも平等に降り掛かるとは言い難い経験の異様さに基づいていると言えるが、無論それだけではない。語り手のメンタリティの異様さが、この作品に持ち込まれた題材の異様さを、独特な方向へ捻じ曲げているように感じられるのだ。

 この小説を一読して直ぐに感じ取れる作者の「口調」と「語法」の特質は、異様に磨き上げられた「明晰さへの意志」であり、執着である。描かれる状況は極めて特殊で危機的であるにも拘らず、それを物語る作者の文体には、混乱や動揺は含まれていない。彼は飽く迄も理論的に明晰であろうと努力し、その努力は絶えず一定の水準を維持し続けている。

 だが、その明晰さは、読者に対する平明さのようなものとは、根底的に異質な何かである。彼はあらゆることを、少なくとも自分が遭遇したことに就いては総ての事柄を、一切の欺瞞から救済し、明晰に見極めようと試みている。何と言えばいいのか、彼は恐らく自分が経験したことの「意味」に就いて、それを問い続けることを永遠に止められないのである。何故、止められないのか。その経験が余りにも異様で、残忍で、酷薄であったからだろうか?

 この小説は、典雅な措辞によって綴られるフィリピンの風景の描写と、語り手の観念的な思弁との、有機的な化合物として形成されている。彼は風景を眺め、その風景の内側から様々な観念の列なりを数珠のように引き摺り出す。この奇怪な営為と執着は、一体何を意味しているのか。

 「野火」という作品が語られるとき、人はそれをカニバリズムの問題と容易く結び付ける。だが、この作品を「カニバリズムを巡る小説」という具合に総括してしまうのは、少なくとも私の個人的感想に照らし合わせるならば、決して適切な解釈であるとは言い難い。確かにカニバリズムの問題が、作品の異様なクライマックスを形作っていると看做すことは可能である。だが、人肉を喰らうことが道義的に許されるか否か、といった次元の問題に、この奇怪な作品の総体を還元することは不当である。この作品にはもっと不可解な「意味」や「観念」の塊が随所に鏤められており、それはカニバリズムの倫理的な問題などという単純な観念には必ずしも結び付かないのである。

 彼の異様な明晰さを、いわば「死者の眼差し」として捉えることは、語り手である「私」が、作品の冒頭から既に「死ぬこと」を半ば宿命として強いられた存在として描かれていることを踏まえるならば、それほど不当な解釈ではないように思う。死を定められた存在として生きること、遠い未来に訪れる「観念」としての「死」ではなく、肉体的にも精神的にも差し迫った領域に存在する、生々しい「映像」としての「死」が、「私」という存在の中核に深刻な影響を及ぼしていることは明らかである。

 目指す朝焼の空には、あれほど様々の角度から、レイテの敗兵の末期の眼に眺められた、中央山脈の死火山の群が、駱駝の瘤のような輪郭を描いていた。

 名状し難いものが私を駆っていた。行く手に死と惨禍のほか何もないのは、既に明らかであったが、熱帯の野の人知れぬ一隅で死に絶えるまでも、最後の息を引き取るその瞬間まで、私自身の孤独と絶望を見究めようという、暗い好奇心かも知れなかった。

 この「末期の眼」が「暗い好奇心」と奇怪な癒合を惹起することによって、この一篇の小説は成立したのだと言い得るかも知れない。彼は既に死ぬことを定められており、死者の眼に己の精神を擬することによって、いわば「認識の怪物」へと変貌を遂げている。

 糧食はとうに尽きていたが、私が飢えていたかどうかはわからなかった。いつも先に死がいた。肉体の中で、後頭部だけが、上ずったように目醒めていた。

 死ぬまでの時間を、思うままに過すことが出来るという、無意味な自由だけが私の所有であった。携行した一個の手榴弾により、死もまた私の自由な選択の範囲に入っていたが、私はただその時を延期していた。

 余りにも生々しい「映像」として差し迫った「死」が、人間の精神に特異な変容を強いるのは必然的な現象であろう。約束された絶対的な「死」は、人間から未来への希望を剥奪するが、そのとき同時に奪い去られるのは「行動」への欲望である。死者は、如何なる行為によっても、現実と繋がることは出来ないし、外界に働きかける権能を根本的に奪われている。死者に為し得るのは、事物の様々な側面を認識し、解釈することだけである。言い換えれば、絶対的な「死」は、事物から一切の「意味」を剥奪し、抹消してしまう。理念も希望も未来も、約束された「死」の前では建設的な意義を持ち得ない。「死」が観念ではなく「映像」として迫るのは、既に彼があらゆる「意味」から見放されているからである。

 死は既に観念ではなく、映像となって近づいていた。私はこの川岸に、手榴弾により腹を破って死んだ自分を想像した。私はやがて腐り、様々の元素に分解するであろう、三分の二は水から成るという我々の肉体は、大抵は流れ出し、この水と一緒に流れて行くであろう。

 にも拘らず、彼は自らの意志で積極的に「処決」を選び取ろうとはしない。それが何故なのかという問題に就いては、彼自身が独特の表現で回答を示している。

 して見れば今私があの空に焦れるのは、及び難いと私が知っているからであろう。私は自分が生きているため、生命に執着していると思っているが、実は私は既に死んでいるから、それに憧れるのではあるまいか。

 この逆説的な結論は私を慰めた。私は微笑み、自分は既にこの世の人ではない、従って自ら殺すには当らない、と確信して眠りに落ちた。

 ここにも「末期の眼」の思想と感情は鮮やかに、明白に息衝いている。死者にとって世界は、純粋な「映像」として受け取られるべきものであり、そのとき、死者の眼に映じる世界は一切の観念から解き放たれ、あらゆる「意味」を漂白されている。だが、その「末期の眼」を語る「私」の意識は、既に「死」の絶対性から遠ざけられた場所にある。「三七 狂人日記」に至って読者は、この作品が精神病院に暮らす六年後の「私」の手で綴られた「回想」であることを知らされる。

 私はこれがみんな無意味なたわ言にすぎないのを知っている。不本意ながらこの世へ帰って来て以来、私の生活はすべて任意のものとなった。戦争へ行くまで、私の生活は個人的必要によって、少なくとも私にとっては必然であった。それが一度戦場で権力の恣意に曝されて以来、すべてが偶然となった。生還も偶然であった。その結果たる現在の私の生活もみな偶然である。今私の目の前にある木製の椅子を、私は全然見ることが出来なかったかも知れないのである。

 しかし人間は偶然を容認することは出来ないらしい。偶然の系列、つまり永遠に堪えるほど我々の精神は強くない。出生の偶然と死の偶然の間にはさまれた我々の生活の間に、我々は意志と自称するものによって生起した少数の事件を数え、その結果我々の裡に生じた一貫したものを、性格とかわが生涯とか呼んで自ら慰めている。ほかに考えようがないからだ。

 この「偶然」が「意味の欠如」を指していることは明白である。「末期の眼」によって純粋な「映像」として把握された世界の実相は、単なる「偶然の系列」に過ぎず、そこに一貫した「意味」を見出そうとする解釈の企ては、真実に対する離反でしかない。だが、彼は何故、そのような「偶然の系列」に執着を示すのだろうか? それは彼が「死者」の側に立って物事を眺めることに、倫理的な責務を感じているからではないだろうか。

 しかし声は私の耳にすら届かない。声はなくとも、死者は生きている。個人の死というものはない。死は普遍的な事件である。死んだ後も、我々はいつも目覚めていねばならぬ。日々に決断しなければならぬ。これを全人類に知らさねばならぬ、しかしもう遅い。

 彼が「偶然の系列」に固執するのは、それが「権力の恣意」によって齎された不幸な運命であるからだ。そして「権力の恣意」を告発する為には、「普遍的な事件」として「死」を捉え直さなければならない。大岡昇平が「野火」を通じて抉り出したのは、そのような「消息」であろう。彼は死者の列に立って世界を「偶然の系列」として眺めることによって、死者の叫び声に唱和しているのである。

 

野火 (新潮文庫)

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