サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

多様性と画一性

 ジョン・スチュアート・ミルの「自由論」(光文社古典新訳文庫)を漸く読了した。

 この書物は「自由」という哲学的な観念を理論的に位置付ける為に書かれたものではなく、著者の視線は極めて実践的な次元に立脚しているように感じられる。体系的な論文であると言うよりも、著者が「自由」という主題に就いて自在に考え、言葉を書き記した批評的なエッセイの風格が全篇に行き渡っている。

 ミルは、抽象的で哲学的な概念としての「自由」には、然して関心を懐いていない。彼が考究するのは専ら社会と個人の関係性における「自由」の具体的な要件であり、その適用の範囲に就いて妥当な基準を如何にして定めるべきか、実践的な立場から、具体的な事例を踏まえつつ思索を積み重ねることが、彼の本意であり、眼目なのだろうと思う。

 ミルの提示する見解は何れも断片的で、個別の事例との関係性や文脈をその都度、考慮に入れなければ、彼の丁寧な省察が具体的な有用性を発揮することは困難であろう。これは決して批判ではなく、彼が絶えず具体的な問題を念頭に置いて考究に集中していることの傍証である。彼の態度は、個別の判例を審らかに調べようとする慎重な法曹の趣を備えている。絶えず「反論」との闘争を通じて「真理」の多角的な認識に至ろうとする弁証法的な考究の方針も、検察官と弁護人との論争を通じて「事実」に到達することを重視する近代的な「司法」の原理に通じているように思われる。

 ミルは「自由」の重要性と、その適用の社会的な限界に就いて、行き届いた考察を積み重ねながら、「世論」と「慣習」によって生み出されるデモクラティックな「専制」に対して、絶えず読者の注意を喚起している。多数派の優越、これは所謂「民主主義」の政体を採用している社会においては、常に警戒されるべき厄介な持病のようなものである。私たちは「自由」と「民主主義」が結び付いていることに余り疑念を持とうとはしないが、厳密に考えるならば、デモクラシーが自由を圧殺することは充分に有り得るし、歴史を繙けば直ぐに具体的な事例を探し当てることも可能である。アドルフ・ヒトラーが民衆の熱狂的な支持の上に、あの破廉恥な独裁を築いたことは、デモクラシーの限界を考える上では欠くことの出来ない「証拠物件」であろう。

 民主主義が「多数決の原理」を制度の根幹に据えている限り、ファシズムの再来は常に想定されるべき最悪の危殆である。従って、民主主義を安易に、半ば自動的に「自由」の観念と結び付けるのは軽率な態度であることを、私たちは己の肝に銘じておかねばならない。デモクラシーは「自由」とは無関係に存在する政治的な制度であり、それは君主政や寡頭政の弊害に対する抑止や解決の方策として意義を持つ。つまり、デモクラシーそのものに「自由」を擁護する権能は備わっていないのだ。

 無論、デモクラシーは悪質な独裁者の存立を妨げる機能を含んでいるが、それは相対的な「程度」の問題であり、少なくとも多数派の支持を得た代表者が強権を行使することは、デモクラシーの制度そのものによっては妨害されない。ミルは、多数決の原理に則ったデモクラシーの制度が(デモクラシーが絶対的な王権に対する抵抗として形成されてきたことを鑑みれば、それが多数派の原理を導入するのは必然的な現象であろう)深刻な「画一化」を齎すことに批判的な視線を注いでいる。「画一化」という言葉は、個人の「自由」を数的優位の原理に基づいて抑圧するような社会的作用を指している。それによって個人は、社会における「自由」の行使が及び得る範囲を制限され、知らぬ間に外在的な体制への従属を強めることに荷担してしまっているのだ。

 こうした問題を、根底的に解決する為の処方箋を、ミルが提示している訳ではない。どちらかと言えば、この書物は具体的な思索の「訓練」に供せられた著作であるように感じられる。ミルは根本的な原理を示した上で、それが個別の事態に対して如何に適用されるべきか、具体的な事例の考察を行なっている。だが、それは絶対的な回答を読者に与える為の手続きではないし、そもそも彼は「絶対的な真理」に対する無際限の「疑義」を、デカルトのように貫くべきだと論じているのである。

 絶対的な真理が存在するという一種の偏見は、答えを求めることが本性の一部を成している私たち人間にとっては、抗し難い誘惑の因子であると言えよう。何が正しいのか、それを個人的な思索の末に定めようとも、集団で討議した結果として発表しようとも、絶対的な真理を自称するのならば、その構造的な瑕疵は変わらずに存在し続けることになる。私たちが己の知性を駆使するのは、絶対的な真理に到達する為ではなく、暫定的な正しさを一歩ずつ踏み固めていく為であり、極言すれば、私たちは殊更に「正しさ」を求める必要さえ持ち合わせていない。寧ろ「正しさ」を疑うことに私たちの知性の賭け金は投じられるべきなのである。

 ミルの最終的な意図は「多様性」を確保する為の社会的制度の設計に存するのではないかと思う。それは文字通り「画一化」の潮流に抵抗するものであり、民主主義を悪用した独裁者の専横を葬る為の政治的なコンセプトである。だが、多様性を確保するということは、極めて非効率な統治の形式であり、非効率な意思決定への劇しい苛立ちが独裁者の野望を燃え上がらせることを考えれば、例えばドナルド・トランプのような人物が「自由の国」の大統領の地位に鎮座し得る現代の社会的風土は、絶望的なまでに「画一化」の弊風に染まっていると看做さざるを得ない。私たちが奪還すべきは「自由の多様性」であり、決して「画一化された自由」という奇怪な観念ではない。だが、性急な独裁者たちが、迂遠で非効率な「多様性」よりも、画一的な社会を望むファシズム的な理想像を好むことは論を俟たない。移民を嫌悪し、自らのアイデンティティ純化しようとするナショナリズム的な情熱、アメリカ人を雇用し、アメリカの製品を購入しようという露骨に保護主義的なスローガン、それは「アメリカ」の「画一化」に他ならない。そのような画一化に「自由の国」の人々が何時までも尻尾を振り続ける見込みは、極めて乏しい筈であると信じたい。

 

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)