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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

近代化の原理(再び「燃えつきた地図」について)

文学

 安部公房という作家は、「都市」と「沙漠」の双方に強い関心を有していた作家である。批評家の柄谷行人は「都市」と「沙漠」が共に「共同体の間」に存在する領域であることを、確か「言葉と悲劇」に収められた講演録の中で指摘していたように記憶するが、実際、この二つの特殊な領域は「地縁」や「血縁」といった原理によって構築された共同体とは異質な性格を備えているように思われる。

 私は昨日から網野善彦の「無縁・公界・楽」(平凡社ライブラリー)を読み出したところなのだが、この書物の中で執拗に追究されている「無縁」の原理に就いて考えながら、安部公房の「燃えつきた地図」(新潮文庫)を不意に想起した。

 近代化という過程が、様々な要素を含んだ綜合的な潮流であることを鑑みれば、余りに簡略化した議論を提示するのは、真実に対する背反の謗りを免かれないだろう。しかし、或る事物や主題に関して論考を進める場合に、細部の不整合を一旦、捨象した上で、概略的な図式を便宜的に案出するのは、決して無条件に排除されるべき方針ではないと、私は信じる。

 例えばマルクスエンゲルスが「共産主義者宣言」(平凡社ライブラリー)の中で示した、封建制からブルジョア階級の成立に至る社会的基盤の推移の概説は、近代化という極めて抽象的な観念に対する理解を深めるのに、有効な手懸りとして活用し得るものである。封建制が領主と下人の属人的な結びつきによって維持され、尚且つ「土地」に縛られた関係性であるのに対し、ブルジョア階級が依拠する産業的=社会的な構造は、遙かに流動的で国際的な性質を備えている。それは人間や物質を特定の共同体から引き離し、奇妙に国際的で普遍的な存在として「抽象化」する働きを担っているのだ。

 近代化を「抽象化」の或る歴史的な形態として捉えるならば、その潮流に与えられるべき異称は「共同体の解体」に他ならない。無論、それは必ずしも一切の共同体を解体するものではないが、多様な共同体を「国民国家」として統合する過程で、旧来の共同体の秩序が次々に破壊され、無力化されていくことは、極めて広範な現象であると言えよう。

 今日、国民国家という形態は、グローバリズムの異常な亢進によって、解体の危機に瀕している。これは必ずしも比喩ではなく、例えば中東やアフリカの一部においては、所謂「想像の共同体」としての「国民国家」は現実に機能を停止し、泥沼のアナーキズム的渾沌へ雪崩れ込んでいるのが実情である。これは近代化の終焉であると言うよりも、その更なる強化と拡張であると考えるべきであろう。グローバリズムは、近代化という潮流がその内側に含んでいた根本的な原理の、最も過激な表現として具体化しつつある。

 そうした状況において、アメリカやイギリスは「国民国家」という象徴的な統合の形式を維持する為に、反動的な保守化の道を選んでいる。それがグローバリズムへの抵抗であり、近代的国家の頑迷な自己主張に他ならないことは論を俟たない。或いは、国民国家の枠組みを超越するように、イスラム教を基軸とする共同体の衝突も発生している。何れにせよ、それらの動きは既存の共同体を「解体」しようとする無慈悲な外圧に対する激烈な抵抗として定義し得るだろう。

 安部公房の「燃えつきた地図」は、失踪した平凡な会社員の行方を追う興信所の「ぼく」によって語られる。その冒頭には、次のような意味深長なエピグラフが掲げられている。

 都会――閉ざされた無限。けっして迷うことのない迷路。すべての区画に、そっくり同じ番地がふられた、君だけの地図。

 だから君は、道を見失っても、迷うことは出来ないのだ。

 このエピグラフを鵜呑みにするならば、「燃えつきた地図」の主題が「都会」に存することは明白である。安部公房は決して単純な推理小説を書いた訳ではない。通例、推理小説には必ず「謎解き」が含まれるものだが、この「燃えつきた地図」という小説は寧ろ、一般的な意味での「謎解き」など成立し得ない「都会」の危険な性格を浮かび上がらせる為に綴られているのである。

 上記のエピグラフは、所謂「近代化」の根底に潜む根源的な力の性質を、暗黙裡に物語っているように思われる。先日読了した「自由論」(光文社古典新訳文庫)の中で、ジョン・スチュアート・ミルが言及していた「画一化」の働きが、ここにも現れているのだ。別の言い方をすれば、管理社会=監視社会の到来であるとも言えるし、あらゆる事物=存在の「平準化」であるとも言い得る。

 画一化=平準化の作用が極限まで高められ、世界を覆い尽くしてしまったとき、私たちが直面するのは、まさしく「閉ざされた無限」に他ならないだろう。何もかもが均質化され、互いの違いが失われ、つまり固有の性質が剥ぎ取られていく世界では、何処の誰であろうと構わず、同じ「番地」に結びつけられてしまうのだ。「閉ざされた無限」は、私たちの暮らす世界が隅々まで平準化されてしまったときに現れる極端な「悪夢」である。それは「外部の消滅」であると言えるかも知れない。あらゆる共同体が解体され、あらゆる「間」が極限まで拡張されたとき、私たちは「世界の外部」に触れることが出来なくなる。何処まで行っても同じ風景が繰り返され、同じ番地に辿り着く。そのとき「私」という存在の証明は、如何にして得られるのだろうか?

 「燃えつきた地図」という作品が、自己という存在の固有性の消滅に対する恐怖を内包していることは明らかである。何故なら、常に「私」の固有性は「私」が関係する世界の固有性と緊密に結び付いているからだ。それは恐怖の対象であると同時に、都市化する社会が必然的に獲得する「形質」のようなものであると言える。世界が隅々まで同質化され、平準化され、如何なる個性も装着しない純粋な平面のように仕上げられてしまったとき、私たちは自分自身を定義することの不可能性に直面する。一体、固有性とは何なのか? 失われてしまった多様性の代償に、私たちが手に入れるのは完全なる同一性の世界である。そこでは、既に「私」という自意識の存立そのものが根拠を奪われ、瓦解してしまっている。私が私であることと、彼が彼であることの間に、有意な差異を見出すことは出来ない。

 都会の心臓の最初の一と鞭を合図に、数百の整理棚の鍵が、せいぜい五分の誤差で、いっせいに開けられて、似てもいないが区別もつかない通勤者の群が、水門を開けたダムからあふれ出した水の壁のように、いきなり道幅いっぱいにひろがる、あの生命の時……

 私たちは相互に「似てもいないが区別もつかない」存在として鋳型から抛り出される。私が私であることの意味と、彼が彼であることの意味は、充分に交換可能な等価物として定義される。「燃えつきた地図」の語り手である興信所の探偵は、最終的に「自分」と「他人」との反転可能性という不可解な暗闇の中へ落ち込んでしまう。

 そうした特質は、安部公房の作品における「匿名性」或いは「無名性」の問題とも関連している。「燃えつきた地図」と「砂の女」は、何れも「失踪」という主題を作品の構造的な枢軸に据えているが、失踪した人間の名前は、堅苦しく無機質な書類の中に、冷たい符号のように記されているだけで、登場人物の間でその名前が具体的に呼び交わされる局面は皆無に等しい。名前の排除、紛れもない個体の「単独性」を指し示す重要な符牒としての「名前」が排除された世界、それは「似てもいないが区別もつかない」存在が犇めき合う世界のイメージと明瞭に唱和している。匿名であることは、個体としての単独性を持たないということであり、それは言い換えるならば「交換が可能である」という性質を保持していることに他ならない。

 「どんな個体も、相互に交換が可能である」という主題が、安部公房の文学的世界を形成する構造的な条件であると、独断と偏見に基づいて、差し当たり言い切ってしまいたい。それは個人が「自らの名前」に基づいて存在するのではなく、何らかの「役割」=社会的な属性によってのみ規定される「匿名」の存在として現れるような世界である。安部公房的な世界においては「個性」という概念の価値は極限まで切り下げられ、買い叩かれる宿命を負う。重要なのは「個性」ではなく、相対的且つ暫定的に定められた「役割」だけである。そして当然のことながら、社会的な「役割」というものは特定の「軸」を持たず、飽く迄も相互的な諸関係の「結節点」としてのみ規定されるべき、空虚な符号である。それは特定の実体、つまり自立した領域としての実体を保有せず、飽く迄も諸関係の集合体として暫定的に生成され、遠からず解消される。

 例えば「他人の顔」においては、語り手は不幸な火傷の為に自らの「顔」を失い、代わりに精巧な仮面を身に着ける。改めて詳しく論じるまでもなく、人間にとって「顔」が余人を以て代え難い「単独性」の象徴であることは明白な経験的事実である。また「箱男」においては、誰かに見られることを拒むように、純粋な「見者」としての自己規定を行なった人間の生態が詳細に綴られる。「どのように見られるか」という問題が、そして「見られることへの峻拒」という問題が、社会的な関係性という主題に接合することは論を俟たないし、それが「相互に交換可能な存在」の特質を成す一端であることも、否定し難い事実であるだろう。「箱男」という書物には、他人からどのように見定められるかによって、その存在の社会的な特性が決定されてしまうことへの、物理的で果敢で身も蓋もない抵抗が刻まれていると言い得る。

 安部公房的な世界において、「自己」という存在の認証は絶えず危うく揺らぎ、破綻の危険と隣接している。そもそも「自己」など存在しないのではないか、という極端な問い掛けが、その世界には残響している。「燃えつきた地図」において、語り手の探偵が最終的に自己の記憶(それは無論、自己の固有性に関する認証の基盤としての「記憶」である)を失い、探偵としての立場を抛棄してしまうのは、安部公房的世界においては、自己の認証が根源的に不可能であるのと同じ理由によって、他者の「正体」を規定することが不可能であると看做されているからだ。「記憶」による自己同一性の担保は、残念ながら「改竄された記憶」という嫌疑を掛けられることによって容易く崩壊してしまうのである。

 過去への通路を探すのは、もうよそう。手書きのメモをたよりに、電話をかけたりするのは、もう沢山だ。車の流れに、妙なよどみがあり、見ると轢きつぶされて紙のように薄くなった猫の死骸を、大型トラックまでがよけて通ろうとしているのだった。無意識のうちに、僕はその薄っぺらな猫のために、名前をつけてやろうとし、すると、久しぶりに、贅沢な微笑が頬を融かし、顔をほころばせる。

 「匿名の交換可能な存在」という特質を背負うことを強いられる安部公房的な世界においては、何かに名前を与えることは無論「贅沢な」試みである。この疲れ果てた終幕の場面には何故か、恩寵のような明るさが射し込んでいるように感じられる。「過去への通路を探す」という一文は、記憶の同一性を媒介として「自己」の連続性を担保しようとする企てを指していると解釈することも出来よう。そうした社会的な企てを抛棄した上で、彼は何処へ向かって歩き出そうとしているのか? その行方は、この「燃えつきた地図」という小説の中には記されていない。何故なら、既に「地図」は燃え尽きてしまったからである。