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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「絶望の螺旋」を突破せよ 乾石智子「魔道師の月」

文学

 乾石智子の「魔道師の月」(創元推理文庫)を読了したので、感想を書き留めておく。

 前作の「夜の写本師」(創元推理文庫)にも共通して指摘し得ることだが、乾石智子という作家がファンタジーの体裁と様式を借りて執拗に追究している主題は、象徴的な言葉としての「闇」である。それは極めて柔軟な多義性を附与されて作中で用いられているので、その概念の適用されるべき範囲を単一的に画定することは難しいし、余り適切な措置でもない。

 「闇」は文字通り、人間の精神と存在の内部に穿たれた洞穴のような暗がりを指し示している。そこには純然たる悪意や、打算や、憎悪や、歪んだ欲望などが吹き溜まりの如く集められ、醗酵している。尤も、作者はそうした「闇」を一方的に醜悪な害悪として描いているのではなく、それが人間という生物にとって不可避の宿命であることを繰り返し強調している。そして作中に登場する多彩な魔道師たちは皆、そうした人間の「闇」を自らの内側に飼い馴らし、制御する技術に秀でた存在として定義されている。

 言い換えれば、作者は殊更に荒唐無稽な絵空事を拵えようとして、古びたファンタジーの長大な伝統に則り、魔道師という一種の古典的な類型を選び取った訳ではない。彼女が「魔道師」という存在を、豊饒なグレコローマン風の想像力を駆使して書物の世界に構築してみせたのは、単にそれがファンタジーというジャンルに必要な装飾であるからではなく、彼女の抱え込んだ一種の倫理的な主題と対峙する上で「魔道師」という設定が重要な機能を担うと目されたからであろう。その文学的な直観は、彼女自身の内なる創造への欲望と分かち難く結びつき、夥しい精気を吹き込まれているように見える。

 「闇」を抱え込むこと、それに呑み込まれず、制御されないように努めること、それ自体は、有り触れたメッセージには違いないし、この物語の重要な鍵を握る邪悪な存在「暗樹」を巡る悪戦苦闘の結末が「果たしてこれで済むのか?」と思わせるような強引な処理によって片付けられていることも、結局は作者が「闇」という主題を打倒する為の有効な展望を見出せなかったという事実の、端的な反映ではないのかという感想を持つことも、極めて容易い。だが、この作品には読者の精神に奇妙な負荷を課し続ける、奇怪な迫力が満ちている。紡ぎ出された最終的な結論が、たとえ凡庸なものであったとしても、この迫力の不可解な価値を否定することは、文学的な感興に対する非道な断罪であると看做すべきであろう。

 そもそも、誰も「闇」の問題に最終的な解決など与えられないことは、作者自身によって十全に認識され、明示されている。それは「暗樹」が滅ぼし得ない存在であり、束の間の弱体化が可能であるに過ぎない、という物語の設定を鑑みれば明白である。

 少し脱線するが、こうした設定から私が直ちに想起するのは「ファイナルファンタジーⅩ」(以下「FFX」と略す)の物語である。「FFX」の場合、世界を潰滅に導く存在として「暗樹」の代わりに「シン」と呼ばれる巨大な怪物が登場する。「シン」から世界を守ることを定められた召喚士は、自らの命を犠牲として捧げることによって、束の間の「ナギ節」と呼ばれる平和な時間を作り出す為に修行に励む。これは「魔道師の月」において、テイバドールの最後の歌が「殉ずることいとわぬ者と/ともに逝かん」という詩句で飾られている事実と、偶然にも暗合している。

 世界を危機に陥れる巨大な災厄が存在すること、それは完全に滅ぼすことが出来ず、一定の時間が経てば再び回帰すること、束の間の封印を可能にする為には、選ばれた人間の命を代償として差し出さねばならないこと、こうした構造的な原理は、必ずしも「魔道師の月」や「FFX」に限って見出される、物語の成立の要件という訳ではないだろう。重要なのは両者の符合に過大な意味を読み取ることではなく、こうした物語の原理が指し示す「世界観」の構造を解析することである。

 この世に最終的な解決など有り得ないという考えは、終末論的な構図に対する否認であると言えるだろう。それは「起源」から「終焉」へ向かおうとする単線的な歴史の発展を拒絶する世界観の形式である。言い換えれば、あらゆる悲劇は永久に再来し、私たちは絶えず「闇」の邪悪な力に捕縛される運命を免かれないと考えるペシミスティックなヴィジョンである。

 だが、この絶望的な世界観、つまり私たちは永遠に「闇」の虜囚として生きるしかないと宣言する螺旋的な世界観(「FFX」の世界に与えられた名前が「螺旋」を意味するラテン語の「スピラ」に由来していることに注意を払われたい)は、少なくとも「魔道師の月」においては物語の結論ではなく、前提であることを考慮せねばならない。決して滅ぼすことの出来ない「暗樹」を、大地の魔道師レイサンダーは自らの心の内部に幽閉することによって、究極的な解決を手に入れる。無論、それによって「暗樹」の復活が永遠に阻止されたという確証が得られる訳ではないが、少なくともレイサンダーは己の命を代償として差し出さずに「暗樹」を封印することに成功したのである。

 それは「FFX」において、大召喚士ユウナが自らの命を失うことなく「シン」を封じ込め、前代未聞の「永遠のナギ節」を世界に齎したこととも符合している。これら二つの物語は共に「永遠に解決されることのない悪」に対する屈服を拒絶し、最終的且つ根本的な解決を得る為に奮闘する人々の苦闘を描いている。彼らは「悪」の度し難い絶対的な存在感を認めているし、それらの影響が完全に廃絶されることは有り得ないと信じている。しかし、彼らはそうした絶望的なヴィジョンによって全面的に支配されることを雄々しく拒否する。言い換えれば、冷酷な現実を従容として受け容れることに納得しないのだ。

 その意味で「魔道師の月」は「希望」を物語る為に綴られた書物であると言えるだろう。「憎悪」や「悪意」が避け難いものであることは認めるが、だからと言って「憎悪」や「悪意」の絶対性に唯々諾々と隷属しなければならない理由もまた、存在しない。寧ろ「憎悪」や「悪意」の絶対性を殊更に囁きかけ、訴えようとする「声」の主人が何者なのか、その妥当性に就いて疑義を呈する勇気が必要なのだ。

 ――かくのごとく、知恵はただの知恵にすぎぬ。善意がなければ知識は闇に堕ちるのだ。いかに理をきわめようと、いかに理を求めようと、真実を探求しようと、欲の蛇が入りこみ、善きものを食らってしまえば皆かくのごとく。破滅と絶望がよみがえって支配する。混沌と醜悪の極みが狂気を呼びこむ。驕りたかぶり増上慢極まった末は皆このようになる。そなたとわれは表と裏、ひっくりかえせば同じものとなる。

 「暗樹」の忌まわしく悪意に満ちた「言葉」に耳を傾け、その禍々しい「論理」に心を蝕まれてしまえば、絶望の螺旋は決して破壊されることなく、永久に循環を続けるだろう。「魔道師の月」は、そのような無窮の螺旋を破砕し、世界に新たな様相を齎す為の艱難辛苦を描き切ることによって、読者の胸を力強く搏つのである。