サラダ坊主日記

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視線の政治学 安部公房「他人の顔」に関する試論

 安部公房の「他人の顔」(新潮文庫)を、十余年越しに読み終えた。

 大学一年生の春に買い求めて途中で投げ出し、それきりずっと私の小さな書棚に埋没を続けていた一冊を、改めてきちんと通読することが出来たのは、ささやかな歓びである。折角の機会なので、拙いながらも個人的な論究を試みたいと思う。

 安部公房という作家が「見る=見られる」という人間相互の関係性に対して、極めて鋭敏で執拗な関心を有していたことは、彼の作品を繙けば直ちに了解される事柄であろう。「視線の政治学」などと気取った表題を掲げてみたのも、作家が「視線」というものに重要な意義を見出している事実に焦点を合わせたいと考えた為である。

 安部公房にとって「自己の喪失」という主題は、この「他人の顔」に限らず、様々な作品を通じて繰り返し取り上げられる重要な観念としての地位を有している。彼の作品に漲る諧謔も閉塞感も、この「自己の喪失」という奇怪な現象へ直向きに注がれる解剖学的な眼差しから分泌されている。何故、彼にとって「自己の喪失」という主題は重要な意義を担っているのか? それは安部公房という作家が「現代」という時代を捉えるに当たって、こうした「自己喪失」の問題を否が応でも意識せざるを得ない「核心」として重視していたことの表れである。

 語り手である男は、液体空気の爆発によって顔一面をケロイド瘢痕によって覆われるという不幸な事故の被害者である。彼は己の顔を幾度も「蛭の巣」と呼称し、他人の視線から己の暗部を庇う為に繃帯を巻いて生活している。ここで彼が陥る屈折した自意識の監獄は、私たちにとっても決して他人事ではない。彼は「顔」の有無によって人間の本質が左右されることなど有り得ないという勇敢な持論を表明するが、実際には「顔」の喪失によって自己解体の危機に追い込まれてしまう。「顔」は所詮「皮膚の一部」に過ぎないというシニックな価値観は、表層よりも深層を重視する近代的な価値観の末裔であるが、そうした価値観の興隆を嘲笑うのが「現代」という時代の先鋭な特質なのである。寧ろ私たちは加速度的に「表層」だけが特権的な価値を有する時代の潮流の渦中へ投げ込まれつつあるのだ。

 何故、私たちの暮らす社会は「表層」の特権性という理念に拝跪しているのか? それは私たち個人の「正体」が徐々に透明性を失いつつあるからだ。そうした変容は、私たちが「共同体」の成員であることから、バラバラに切り離された原子的な「個人」として存在することへ、生存の原理を書き換えつつあることの反映である。私たちは「個人」という単位で生きることを強いられ、且つ自ら選択しつつある。実存の限りない自由は、私たちの「素顔」が何であるのかという問いの答えを、歴史的な諸条件から隔絶させ、恣意的な選択の累積として規定する。だからこそ、私たちは事物の「表層」に対する鋭敏な感性を発達させることに惜しみない情熱を注がねばならないのである。

 一見すると、この「他人の顔」という小説の主題は、個人に刻み込まれた重要な徴としての「顔」の特権性を語り尽くすことに存するかのように思われるが、そうした理解は決して適切なものではない。「素顔」を「不完全な仮面」と呼ぶ「ぼく」の発想は、私たちの世界が「表層」によって支配されていることを明瞭に告発している。だからこそ、彼は「顔」を失うことによって自己の致命的な解体に追い込まれるのである。彼は精巧な「仮面」を作り出すことによって、自己の恢復を企てるが、そうやって生み出されたものは所詮「他人の顔」に過ぎない。それは自己の恢復とは全く異質な悲喜劇を形成することになる。「表層」だけが支配する世界で、仮面という欺瞞的な「表層」を手に入れることで、彼は「他人への通路」を甦らせようと試みるが、結局それは無惨な敗北に帰着する。何故、彼の企ては失敗しなければならなかったのか?

 でも、もう、仮面は戻ってきてくれません。あなたも、はじめは、仮面で自分を取り戻そうとしていたようですけど、でも、いつの間にやら、自分から逃げ出すための隠れ蓑としか考えなくなってしまいました。それでは、仮面ではなくて、べつな素顔と同じことではありませんか。

 妻からの手紙に記された、この酷薄な断罪の文章は、彼の敗因の在処を簡潔に指し示していると言えるだろう。自己回復の為に創造した精巧な「仮面」を被ることによって、彼が手に入れたのは「自分自身」ではなく「他人」としての「自分」であったのだ。つまり、彼は「表層」によって支配されるという時代の特質に紛れもなく屈服していたのである。「表層」を取り換えてしまえば、別の人間に生まれ変わることが出来るという「仮面」の悪魔的な魅力は、そもそも「自己」という観念が他愛のない幻想に過ぎないことを曝露している。

 「私」という人間の本質は、「私」という人間の「表層」によって規定されている。こうした考え方を否定していた筈の「ぼく」は、錯綜した仮面劇の世界に足を踏み入れ、結果的に「仮面」という完璧な「酩酊」の方法を発見し、その虜になってしまう。だが、そうした酩酊が完璧である為には、人間の存在論的な単独性の根拠が、その人間の「表層」だけに限定されている必要がある。「表層」さえ交換すれば、直ちに別人に生まれ変われるという奇怪な「酩酊」の現象は、人間の本質が「顔」という「表層」にしか基盤を置いていないことの傍証なのである。

 人工的に作り出された、誰でもない人間の顔としての「仮面」を装着することで、彼は自分自身の存在を維持したまま、別の「人間」として存在する権利を確保する。これは何を意味するのか? 言い換えれば、彼はケロイド瘢痕によって「素顔」を失ったのではなく、精巧な「仮面」を被ることによって「素顔」を失ったのである。蛭の巣を隠匿する為の繃帯の覆面でさえ、厳密には「ぼく」という個人の歴史的な存在と緊密に結び付いた「素顔」であったと看做すことが可能である。だが、精巧な「仮面」の魔力は、彼を完全な匿名性の鎧の中に封じ込める。完璧な「酩酊」とは即ち完璧な「匿名」の異称である。仮面を通じて、いわば「透明人間」となることで、彼は絶対的な権力を掌握することに成功するのだ。それは他人から「見られる」ことを免除され、一方的に「見る」だけの主体として自己定義することを意味する。

 ケロイド瘢痕と、それを隠す為の繃帯の覆面は、暴力的なまでに「見られる」ことを強いられる、極めて苛酷な境涯の象徴である。彼は精巧な仮面を被ることで、当初は平凡な自己の恢復に努めたが、それは「仮面」の本質を見誤った判断であったと言えるだろう。仮面は本質的に「他人の顔」であると同時に「誰でもない人間の顔」でもあるのだ。幾ら他人から凝視されたとしても、それは「ぼく」ではなく「仮面」の方である。この奇妙な自己分裂が、彼に「純粋な見者」としての法外な権力を授けるのだ。

他人の顔 (新潮文庫)

他人の顔 (新潮文庫)