サラダ坊主日記

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経験的現実の解体 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(第2部 予言する鳥編)

 村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編』(新潮文庫)を読み終えた。

 読後の印象としては、長い物語が漸く具体的に、本格的に動き出したという感じである。一巻を通じて緻密に、慎重に、丁寧に整えられていった物語の基盤が、語り手の妻であるクミコの失踪という不吉な事件によって、強制的な転調を迫られ、いよいよ受動的な立場から脱け出さねばならなくなった、というのが私の個人的な要約である。

 「第一部 泥棒かささぎ編」の感想文でも述べた通り、村上春樹の作り出す主人公は概ね受動的な姿勢を示し、積極的な意図や計画に基づいて主体的な行動に踏み切るということが稀である。どちらかと言えば一歩現実から引き下がり、個人的で私的な領域の平和を何よりも優先する構えを維持し、物語の流れに対して批評的で客観的な関係を保とうと試みるのが、村上春樹的な主体の持つ典型的なメンタリティである。

 だが、少なくともこの物語において、村上春樹的なメンタリティは根本的な変更を強いられているように見える。その直接的な原因は無論、妻であるクミコの唐突な失踪という、いわば外在的な「強いられた出来事」によって齎されており、その意味では、彼は未だ主体的な意志の積極的な所有者であるとは言い難い。しかし、妻の失踪という予期せぬ悲劇(夫の境遇と立場から事態の構図を眺めれば、これほど悲劇的な現実は他に考えられないだろう)に見舞われた彼は漸く、自分自身の根源的な実存の様態に懐疑を向けることになる。当然のことながら、自分自身の実存の様態に満足して、そこに安んじている人間が、何らかの物語の主役として、事態を牽引していくということは有り得ない。あるがままの現実を肯定しているのならば、何故、敢えて物語という不可解な構造に挺身する必要があるだろうか? 何の問題もなく、現状の追認だけで然したる不都合も生じない境遇ならば、物語という装置を導入する義務はない。何故なら、物語という装置は必ず人を今、この瞬間に佇んでいる場所から、異質な時空へ連れ去ることを自らの使命として背負っているものだからだ。

 自足、それ自体に倫理的な罪科を担わせるのは余りに酷薄な措置であろう。だが、その自足が知らぬ間に他人の心へ不穏な陰翳を投影しているとしたら、或いはその自足が誰かの「飢渇」の上に辛うじて成り立っているのだとしたら、そのような事態は暗黙裡に、物語の駆動を待望していると看做すことが出来る。そして語り手の「僕」は、つまり岡田亨は、それまでの安定した個人的な領域から、血腥く暴力的な世界へ踏み出していくことになる。彼はそれまでの安定した個人的な領域が隠蔽し、黙殺していたものとの直面を命じられる。

 その第一歩として彼が選択した具体的な行動が、近所の空き家の庭に穿たれた「涸れた井戸」の中へ入ることであったというのは、如何にも奇妙な話のように聞こえる。それが事態を解決する為の最も建設的で合理的な選択であるとは到底考えられないからだ。しかし、そうした常識的な解釈に依拠して「僕」の行動の無意味な性質を指弾しても、読解は進捗しない。必要なのは、涸れた古井戸の底へ閉じ籠もって時間を過ごすことの「意味」を捉える為に思索の工夫を凝らすことである。端的に言えば、彼は誰にも邪魔されることのない孤絶した空間の奥底で、失踪した妻との思い出を改めて綿密に回想することに「井戸の中の時間」を充てている。だが、井戸における経験の含意は、それだけには限られない。

 でもいくら努力しても、僕の肉体は、水の流れにさらわれていく砂のように、少しずつその密度と重さをなくしていった。まるで僕の中で無言の熾烈な綱引きのようなことが行われていて、僕の意識が少しずつ僕の肉体を自分の領域に引きずり込みつつあるようだった。この暗闇が本来のバランスを大きく乱しているのだ。肉体などというものは結局のところ、意識を中に収めるために用意された、ただのかりそめの殻に過ぎないのではないか、と僕はふと思った。その肉体を合成している染色体の記号が並べかえられてしまえば、僕は今度は前とはまったく違った肉体に入ることになるのだろう。「意識の娼婦」と加納クレタは言った。僕は今ではその言葉をすんなりと受け入れられるようになっていた。僕らは意識で交わり、現実の中に射精することだってできる。本当に深い暗闇の中ではいろんな奇妙なことが可能になる。(『ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編』新潮文庫 pp.135-136)

 このような「解体」の表現は「ねじまき鳥クロニクル」という小説においては幾度も執拗に頻出する。一般的に信じられている経験的な現実の秩序が危うく揺らぎ、壊れ、砕けて、根本的な変質を遂げてしまうこと、そのような奇妙な「体感」が繰り返し語られる。その表現の反復は何を指し示しているのだろうか? 意識と肉体の比重が乱れ、均衡が崩れてしまうということ、言い換えればそのような変質を得る為に「井戸」の暗闇へ侵入すること、それが物語の投じる課題への有効な対策として機能し得ること、これらの奇妙で難解な諸条件は、この「ねじまき鳥クロニクル」という小説世界の根本的な原理を構成しているように見える。

 「本当に深い暗闇の中ではいろんな奇妙なことが可能になる」という一文は、この井戸の奥底の暗闇が、或る象徴的な機能=役割を担った領域であることを暗示している。「いろんな奇妙なこと」を可能にする為に、岡田亨は「涸れた井戸」の奥底へ自ら足を踏み入れたのだ。だが、それは一体、どのような建設的企図を孕んでいるのか?

 僕は暗闇の中で両手の十本の指先をきちんと合わせた。親指は親指に、人さし指は人さし指に。僕の右手の指は左手の指の存在を確認し、僕の左手の指は右手の指の存在を確認した。それからゆっくりと深呼吸をした。意識について考えるのはもうやめよう。もっと現実的なことを考えよう。肉体が属している現実の世界について考えよう。そのために僕はここにやってきた。現実について考えるために。現実について考えるには、現実からなるべく遠く離れた方がいいように僕には思えたのだ。たとえば深い井戸の底のような場所に。「下に下りたいときには、いちばん深い井戸の底に下りればいい」と本田さんは言った。壁にもたれかかったまま、僕は黴臭い空気をゆっくりと吸い込んだ。(『ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編』新潮文庫 p.136)

 「現実について考えるには、現実からなるべく遠く離れた方がいい」という見解の是非に就いては断定を避けたいと私は思う。この物語における「井戸の経験」は、物事の総体を把握する為には遠くから俯瞰した方が良いなどという次元の単純な解釈とは相容れないように感じられるからだ。

 「井戸の経験」を通じて、彼は記憶の深淵に遡行し、自分が何処で何を間違えたのか、何処で潮目が変わったのか、それを探究することに労力を費やした。その結果として、一つの手懸りに逢着する。

 たぶんあの時から何かが変わり始めたんだ、僕はふと思った。間違いない。あの時を境として僕のまわりで流れが確かな変化を見せ始めたのだ。今になって考えてみれば、あの堕胎手術は僕ら二人にとって、非常に重要な意味を持つ出来事だったのだ。でもその時には、僕はその重要性がうまく認識できなかった。僕は堕胎という行為そのものにあまりにも強くとらわれすぎていた。でも本当に大事なことは、もっと別のところにあったのかもしれない。(『ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編』新潮文庫 p.382)

 無論、これは堕胎を巡る些細な心の擦れ違いが、知らぬ間に重大な亀裂へ繋がっていたという、凡庸な筋立ての一環ではない。それほどに単純な話ならば、これほど入り組んだ物語の展開を組み上げるのは、単に冗長な手続きでしかないだろう。重要なのは、クミコが「僕に言えない何か」を昔から抱えていたということ、その何かが失踪の起点であるということに存している。

 第二部の終盤、岡田亨は区営プールで「井戸」の幻想に包まれ、そこで一つの真実に到達する。何故、それが真実と判定されるのか、その論理的な根拠が示される訳ではない。だが、それを真実と判定しない限り、私たち読者は「ねじまき鳥クロニクル」という小説を支配する根本的な原理に手を触れることが出来ない。

 それから何かがさっと裏返るみたいに、僕はすべてを理解する。何もかもが一瞬のうちに白日のもとにさらけ出される。その光の下ではものごとはあまりにも鮮明であり、簡潔だった。僕は短く息をのみ、ゆっくりとそれを吐き出す。吐き出す息はまるで焼けた石のように固く、熱い。間違いない。あの女はクミコだったのだ。どうしてこれまでそれに気がつかなかったのだろう。僕は水の中で激しく頭を振った。考えればわかりきったことじゃないか。まったくわかりきったことだ。クミコはあの奇妙な部屋の中から僕に向けて、死に物狂いでそのたったひとつのメッセージを送りつづけていたのだ。「私の名前をみつけてちょうだい」と。(『ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編』新潮文庫 p.425)

 この重要な「発見」が「井戸」の幻想を通じて齎されたことは注目に値する。この「井戸」が私たちの暮らす経験的な現実の秩序を解体するものであることは歴然としているように思われる。そこでは経験的な現実と幻想的な「真実」との境界線が融解している。そして村上春樹が紡ぎ出す物語の目的は、経験的な事実を説明することには存しない。彼が捉えようとしているのは、もっと象徴的で、暗示的で、不可解な機構のようなものだ。それは分析的な言葉では捉え難い、不透明な輪郭と性質を備えている。彼はその曖昧な語法を駆使して、一体何を把握しようと試みているのだろうか?

 彼の目的がクミコを取り戻すことにあるのは明白な事実である。だが、クミコが失踪した理由は極めて観念的な表現を通じて語られており、私たちはそれが如何なる経験的事実を指し示しているのか、明瞭に理解することを事実上、禁じられている。

 私とあなたのあいだには、そもそもの最初から何かとても親密で微妙なものがありました。でもそれももう今は失われてしまいました。その神話のような機械のかみ合わせは既に損なわれてしまったのです。私がそれを損なってしまったのです。正確に言えば、私にそれを損なわせる何かがそこにあったのです。私はそのことをとても残念に思います。誰もが同じような機会に恵まれるわけではないのですから。そしてこのような結果をもたらしたものの存在を、私は強く憎みます。どれほど私がそのようなものを強く憎んでいるか、あなたにはわからないでしょう。私はそれが正確に何であるのかを知りたいと思います。私はそれをどうしても知らなくてはならないと思うのです。そしてその根のようなものを探って、それを処断し、罰しなくてはならないと思うのです。(『ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編』新潮文庫 pp.232-233)

  間宮中尉も、加納クレタも、そしてクミコも、共に「自分」の崩壊という危殆に直面し、苦しめられている。彼らは経験的な事実が解体してしまった後の、不可解な曠野の中で生きることを余儀無くされている。何が彼らの「自分」を崩壊させたのか? 加納クレタに関して言えば、それは綿谷昇との奇怪な性交であり、間宮中尉の場合には、それは満州の井戸で味わった強烈な陽光の経験である。そこに何らかの共通項を見出すことは可能だろうか? 間宮中尉は人生の「核」を光に焼かれて失い、加納クレタは綿谷昇との性交を通じて、自分というものの流失を経験した。こうした「個人的なもの」の崩壊と破綻は、一体何を意味しているのか? 率直に言って、今の私には未だ、その答えを導き出す力が備わっていない。

ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編 (新潮文庫)