読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「書く」という営為は、一様ではない

 チェコに生まれ、後にフランスへ亡命したミラン・クンデラは、「小説の技法」(岩波文庫)という極めて刺激的な文学論の集成に収められた「六十九語」という興味深いエッセイの中で、小説家と呼ばれる人種の厳密な定義を試みている。この定義はそのまま、クンデラの非常に意識的で明敏な文学的価値観の本質へ通じていると言えるだろう。

 私はサルトルの短いエッセー「書くとは何か」を再読する。彼は一度として小説、小説家という言葉を使わず、散文作家についてしか語っていない。正しい区別と言うべきだ。

 作家は独創的な思想と模倣しがたい声をもち、(小説をふくむ)どんな形式でも役立てることができる。作家が書くものはすべて、彼の思考の刻印を残し、彼の声によって伝えられる以上は、彼の作品の一部になる。ルソー、ゲーテシャトーブリアン、ジッド、カミュ、マルロー。

 小説家はみずからの思想を重視しない。彼は手探りで実存の未知の側面を明らかにしようとする探索者なのだ。彼はおのれの声ではなく、彼が追求する形式に心を奪われるのであり、みずからの夢の要請に応える形式のみが彼の作品の一部になる。フィールディング、スターン、フローベールプルースト、フォークナー、セリーヌ

 作家は彼の時代、国民の精神的な地図、思想史の地図にみずからの名前を登録する。

 ある小説の価値を把握できる唯一のコンテクストは、小説の歴史というコンテクストである。小説家はセルバンテス以外の誰にも釈明する必要はないのだ。

 この私的な定義が普遍的な妥当性を備えているのか否か、私には判定する能力がない。だが、こうした緻密で神経質な定義に固執するクンデラの思考に、単なる呆れ顔を向けただけで踵を返すのは少しも魅惑的な選択ではない。彼は、このような微妙な定義を明示することによって、何を語ろうとしているのだろうか?

 小説家は自分自身の思想や実存には関心を示さない。そもそも小説が根底的にフィクションであるという事実は、小説が常に小説家自身とは異なる「他人の顔」(©安部公房)によって物語られるという原理的な宿命を内包している。つまり、小説を書き綴るとき、小説家は不可避的に「他人の顔」を被って様々な出来事に就いて言葉を費やさなければならないのだ。そのとき、敢えて自らの生身の声で語ろうとするならば、小説はその固有性を喪失することを強いられるだろう。

 小説家は自分自身への関心を上回るほどに、他人への興味が強い生き物なのだろうか。小説家ではない私には、よく分からないけれど、確かに自分とは異質な存在への強烈な関心を持続させない限り、架空の人物が動き回る形のない異界の悲喜交々を、悉く紙上へ書き表すなどという酔狂に囚われ続けることは困難であろう。存在しない他人への持続的な関心、それは小説家が小説を書き続ける為に要求する最も基礎的な条件であるに違いない。

 その意味では、私は自分という存在そのものに関心が強いのかも知れない。存在しない他人の一挙手一投足を頭の中に思い浮かべて、適切な表現を研ぎ出すことに、濫れるような情熱を持つことが困難な性格であることは、恐らく確かな事実である。私は私という人間の思想や価値観に愛着を持っており、他人の価値観に真剣な関心を寄せることは余り多くない。他人の価値観に真剣な関心を寄せることの苦手な人間が、架空の他人の行状に関して、豊饒な想像力を延々と作動させ続けるという荒業に適性を示し得る理由は存在しない。言い換えれば、小説家は他人の実存の内側に自分自身の人生に関わる重要な答えや真実を見出そうとする種族なのだ。

 私は過去に幾度も小説を書き、その一部は、このブログにも投稿している。だが、まともに小説を完成させられた経験は数えるほどしかなく、しかも私が生み出した架空の人々は存在感の稀薄な亡霊のようなものばかりだ。そこに血の通った生身の人間の息吹を感じ取ることは極めて困難である。そこに活き活きとした人間の実像が写し取られているとは到底言い難い。だが、私は書くという営為そのものには、常識的な水準以上の執着を懐いていると自負している。

 小説家とは、自分自身に就いて語ることが苦手な人種であると、クンデラは述べている。

 「芸術家はみずからが生きなかったと後世に信じさせるべきだ」とフローベールは言っている。モーパッサンはある有名作家双書にじぶんの肖像が掲げられるのに反対して、「ひとりの人間の私生活および姿は公衆のものではない」と言った。ヘルマン・ブロッホはじぶん自身、ムージルカフカについて、「私たち三人にはいずれも真の伝記はないのだ」と語った。これは彼らの人生には出来事が乏しいということではなく、特別に扱われたり、公衆の眼に曝されたり、伝記にされたりすべきものではないということなのだ。なぜ詩を書かないのですかと尋ねられたカレル・チャペックの答えは、「私はじぶんのことを語るのが嫌いだからだ」というものだった。真の小説家の特徴は、じぶんについて語るのが好きではないということである。

 クンデラの言い分を信用するならば、こんな風にブログを運営して自分の考えや記憶を誰にも頼まれていないのに公共的な領域へ開示している私のような人間が、小説を書くという営為に不適格な人間であることは、当初から明白であるということになるだろう。小説家は、自分自身に就いて語っているように見える体裁を選んだ場合でも、決して自分自身に就いては語らないのだ。寧ろ彼らは、自分自身さえも、一個の異質な他人として取り扱うことを厳格な流儀として採用しているのである。

 

小説の技法 (岩波文庫)

小説の技法 (岩波文庫)