サラダ坊主日記

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「少年性」をめぐる惨禍 大江健三郎「飼育」を読んで

 大江健三郎芥川賞受賞作である短篇小説「飼育」を読み終えた。

 作家の初期の傑作長編小説として名高い「芽むしり仔撃ち」にも通底する独特の空気を湛えた、この美しい小説は、独自の文体を駆使して、無垢であると同時に淫らで狂暴でもある「少年」の心理と実存を生々しく精細に描き出している。

 筋書きは異なるが、この「飼育」という作品は「芽むしり仔撃ち」の先駆的な原型という性質を有しているように感じられる。その共通点は概ね二つの主題に集約されると言い得るだろう。一つは「少年」であり、もう一つは「監禁」である。そして、それらの主題の背景には遠くからぼんやりと伝わって来る不吉な音響としての「戦争」が横たわっている。この「戦争」から遠く隔てられた領域で暮らしていた筈の少年の世界に、外部から致命的な暴力が覆い被さり、一種の理想郷として作り上げられた「子供だけの世界」が残酷な破綻を迎えるという一連の筋書きは、当時の作者の眼には単なる恣意的な思いつきの範疇を超えた、宿命的な構図のようなものとして映じていたのではないだろうか。

 作者は「子供だけの世界」を人工的に構築する為に必ず「監禁」という条件を準備する。「飼育」の舞台となる山間の「村」は長雨の影響で「町」への道を閉ざされ、「芽むしり仔撃ち」の疎開少年たちは、疫病の蔓延を危惧する大人たちの手で「村」に幽閉される。その「監禁」と「隔絶」が、子供たちだけの世界を生み出し、その精神や思想を純化することになる。

 大江健三郎は、これらの重要な初期作品において、絶えず「子供」の側から世界の実相を眺め、その美しさと醜さの総てを捉えようとしている。この文学的な企図が、所謂「大人」たちによって作り上げられた社会に対する批判的な敵愾心を孕んでいることは論を俟たない。彼は飽く迄も「少年」の論理に身を挺することによって、「大人」の眼では把握することの困難な世界の側面を剔抉しているのである。

 だが、純粋な少年の視線を通じて、大人たちの穢れた側面を暴露し、糾弾するというだけの企みであるならば、これらの小説が奇怪で不穏な緊張感を終始、纏い続けることは出来なかったであろう。作者は「少年」の論理と抒情を極めて生々しく忠実に再現しながら、同時にその避け難い脆弱さ、それが滅び去ることの必然性を明瞭に刻印することを忘れない。言い換えれば、彼はそうした「少年性」の救い難い矛盾と軋轢を、独特の屈折した文体によって入念に捉え、精確な表現を与えるべく悪戦苦闘しているのである。この孤独で果敢な奮闘が、作者の文体から単純な明快さを奪い取ったのは、必然的な現象であると言い得るだろう。

 無論、そうした「少年性」の不可避的な敗北に対して、作者が大人びた賢明な諦念で報いているとは言い難い。寧ろ、そのような物分かりの良い「和解」を排除して、どうにも遣り場のない、袋小路のような矛盾そのものを文学的に表出することが、初期の大江健三郎の仕事が有していた重要な価値だったのではないかと思われる。彼は「少年性」と「社会性」との絶えざる軋轢や衝突を詳さに捉え、描き出しながら、そこに絶望と憤怒の両面を注ぎ込んでいる。彼は大人たちの手で自分は「罠に嵌められた」という感覚への執着を、決して容易く抛棄しようとは考えない。こうした「被害者としての少年」という特権的な主題の背後には恐らく、日本が味わった「敗戦」という経験が濃密に滞留している。

 敗戦によって日本という国家を取り巻く思想的な環境が激変したことは、歴史的な認識として受け容れられている。この急激な「転回」が、日本の「少年少女」に齎した影響と衝撃は計り知れない強度を有していただろう。「大人たちによって自分たちは欺かれていたのだ」という精神的な傷口が、大江健三郎という作家の来歴には深甚に浸透しているのではないか。例えば「芽むしり仔撃ち」において、語り手を含む感化院の少年たちは一貫して、大人たちの徹底的な暴虐に苛まれる存在として描かれており、しかもその虐待に匹敵するだけの「罪悪」の内訳は殆ど明示されない。子供は無条件に暴虐の被害者であり、大人は同様に加害者であるという認識の構図は牢固として抜き難い。「死者の奢り」においては単なる理不尽な手違いとして示されるに留まっていた「被害」の構造は、「飼育」においては黒人の兵士の裏切りとして、「芽むしり仔撃ち」においては疫病を懼れる疎開先の大人たちの残虐な詐術として、陰惨な印象と共に明示される。「黒人兵」も「疎開」も、戦争という一つの強靭で深遠な主題が齎した、一方的な存在=措置であることは言うまでもない。作家が戦争犯罪を糾弾し、戦後民主主義に異様な執着を見せる背景に、こうした「被害」の宿命的な原像が関与していることは、概ね確かな事実であろうと私は思う。

 

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

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