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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「畸形」としての物語 ハーマン・メルヴィル「白鯨」に関する読書メモ 2

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 メルヴィルの「白鯨」(岩波文庫・八木敏雄訳)の中巻を読み終えたので、覚書を認めて読者諸賢の御高覧を賜りたいと思います。

 改めて思い知ったことですが、この「白鯨」という小説において、作者のハーマン・メルヴィルは「筋書き」というものに殆ど誠実な関心を懐いていません。恐らく物語の骨格だけを取り出して、過不足のない文章表現だけを塗して作品を仕上げれば、岩波文庫で全三冊もの分厚い分量に達することも、あれだけ夥しい数の訳注を附与することも、要らぬ手間だったに違いありません。しかし、そうやって合理的なブラッシュアップを施してしまえば、この「白鯨」という異様な小説の内奥に漲る独自の生命力が涸渇してしまうであろうことも、一つの重要な事実として認めざるを得ません。

 或る一連の出来事を簡潔に、分かり易く物語るという技術が、小説の芸術的価値を左右する唯一の規矩として信奉されている世界においては、メルヴィルの「白鯨」は紛れもない失敗作であり、不要な饒舌をたっぷりと吸い込んだ、不可解な情熱の産物として蔑まれることでしょう。実際、私が読み終えたばかりの中巻において、物語が具体的な前進を遂げていると言える箇所は殆ど皆無に等しいのです。様々な挿話が語られ、語り手の大仰な演説と勿体振った考察が入り乱れるばかりで、物語は一向に核心へ迫っていこうとはしません。物語の緻密で可憐な筋書きを味わうことが、読書の醍醐味だと信じて疑わない素朴な人々にとっては、メルヴィルの小説作法は噴飯物であるに違いありません。

 けれど、そのような性質の批判が「小説」という観念に対する固陋な偏見から形成されていることに、私たちは注意を払わねばなりません。そもそも「小説」が「物語」に対する忠実な使徒ではない事実を捉えて、それを厳しく論難するのは筋違いであり、そうした見方は「小説」の本質的な役割に対する謬見に基づいています。「小説」は「物語」に対する批判として生まれ、決まり切った構造性を揶揄することを自らの使命として担っています。その意味で「白鯨」の奇妙な観念的饒舌は寧ろ、この作品が典型的な「小説」であることを立証する根拠として受け止められるべきなのです。

 メルヴィルの「白鯨」の説話論的な構造だけを取り上げれば、或いはその基本的な物語の枠組みや舞台設定だけを眺めれば、この小説が一種の明快な「海洋冒険小説」の類として成立することは少しも困難な所業ではありません。作者さえ、その気になれば、幾らでも「白鯨」をモービィ・ディックとエイハブ船長との宿命の対決という構図に還元して、そこに緊密な形式を附与することは幾らでも可能なのです。しかし、それは「白鯨」を通俗的な物語の領域へ押し流す行為でしかなく、この作品の歴史的な特権性の依拠する基盤を破壊する選択に他ならないと言い得るでしょう。

 単なる海洋冒険小説のフォーマットに回収されることのない異様な個性、それがメルヴィルの紡ぎ出す縦横無尽の「饒舌」によって支えられ、生み出されていることは明瞭な事実です。それが「白鯨」に唯一無二の特異性を与える根拠として作用しているのです。そもそも、メルヴィルは物語という一種の時間的な継起に基づくシステムに対して、最低限の敬意しか支払っていません。彼にとって重要なのは筋書きではなく、飽く迄も「鯨」という崇高で特権的な主題なのです。その主題を浮き上がらせ、栄光によって包摂する為に、彼はあらゆる種類の表現を試み、あらゆる典籍を引用します。彼の該博な知識は総て「鯨」という崇高な主題に向かって捧げられ、集約されています。

 或る特定の主題によって物語の総体を、若しくは作品の総体を支配するという手法は、十九世紀的な「リアリズム」の理念とは相性の悪い文学的流儀です。この作品が、作者の生前には社会的な関心を集めず、作者の経済的な困苦を救済する方途にも成り得なかったのは、当時の社会が「リアリズム」という理念への素朴で全面的な信頼を生き抜いていたからではないかと考えられます。ロマン主義に対する種々の「反省」が、リアリズムへの意識を齎したのだとすれば(このような図式化が学術的な有効性を備えているのかどうかは、市井の凡人である私には判断しかねます)、メルヴィルの投下した「白鯨」に充満する観念的で野放図な饒舌が、世間の歓心を購えずに遠く見放されてしまったのも必然的な結果であったと言えるでしょう。良くも悪くも、この「白鯨」はリアリズムという規矩に対する素朴な信仰を踏み躙ってしまうような性質を備えています。

 けれど、そもそも「リアリズム」とは何なのか、という根源的な問いに立ち戻るならば、前述したような図式化の妥当性自体が疑わしく感じられることになります。或る意味では、メルヴィルの「白鯨」には身も蓋もない科学的記述が、甘ったるいロマンティシズムを蹂躙するようなリアリズムが、豊富に含まれているとも言えるのです。

 「白鯨」という小説は、捕鯨の世界に対する飽くなき情熱と、何よりも「鯨」という崇高で特異な存在に対する異様な鑽仰の念に満たされています。けれど、そのような情熱を単なる「鯨」へのロマンティシズムと解釈するには、作者の饒舌は余りにも節操を欠いているように見えます。寧ろ作者は、リアリズム全盛の時代に敢えて「捕鯨」の荒漠とした現実に神話的なロマンティシズムの風合いを与えることで、一つの皮肉な面白さを生み出そうと企てたのではないでしょうか。何もかもを尤もらしい「写実」の枠組みに回収しようとする十九世紀の精神に抵抗すること、それがメルヴィルの文学的な野心の目指す「果実」であり「鯨油」だったのではないでしょうか。

 

白鯨 中 (岩波文庫)

白鯨 中 (岩波文庫)