サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「赦すこと」に就いて

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 今日、昔の部下(男性です)と電話で話す機会を持ちました。今は転職して、別の会社で働いているのですが、久々に逢いましょうという連絡が届いたのです。何かあったのかと思い、メールで「そろそろ結婚の報告か?」と冷やかしたら、案の定「別れました」という返信が来ました。人間は、順風満帆の時には後ろを振り返らないものですが、何らかの蹉跌に遭遇すると、無性に過去が懐かしく思えたりするものです。

 電話で話したところ、要するに相手の人間性に納得し難い部分を見出すようになり、冷却期間を置いた上で話し合った末、別れるという結論に到達したということでした。詳しい事情は分かりませんが、付き合っていた女性が、ルームシェアしている同居人の女性に対して、傍目には理不尽とも異様とも思える憎悪を懐くようになり、それを露骨に表現するようになって、彼はそれまで隠蔽されていた相手の「本性」を目の当たりにしたような想いで、百年の恋も冷めてしまったようです。

 彼女が同居人に対して、如何なる経緯から「赦し難いもの」を胸底に滾らせるようになったのか、その精確な真実は本人にしか分かりませんし、或いは本人も明瞭には自覚し難いものなのかも知れませんので、又聞きの第三者が彼是と論評を加えるべきではないでしょう。ただ私が、その出来事から触発されるように考えたのは、一体「赦す」とは如何なる営為なのか、という問題でした。

 例えば私は、電話で話した部下と一緒に働いていた当時は、かなり高圧的で鼻持ちならない男で、他人の失錯を絶対に「赦し難い」と感じる傾向の強い人間でした。しかし、最近では随分と角が取れて丸くなり、多少のことでは怒りませんし、仮に怒ったとしても、それを表に出すことは稀です。そうした精神的変化は、単なる加齢の所産なのかも知れませんが、それ以上に私自身が身に染みて、他者の失錯を厳しく見咎め、糾弾し、叱責することの「不毛」を理解するようになったことが、最大の要因であると分析しています。昔の私は、他者の失錯を叱責することを「正義」であると信じ切っていました。しかし、様々な経験から、私はそうした「正義」が極めて無力な理念でしかないことを少しずつ学んでいきました。厳しい糾弾や訓戒が、他者の力を伸ばし、成長を促すことは極めて稀です。もっと言えば、そういう「粗捜し」のような行為は、どんな盆暗な人間にも出来る下賤の行為であると、考えを革めるようになったのです。

 私には今、一歳二箇月の娘がいますが、徐々に自我がはっきりとしてきて、気に入らないことがあると、直ぐに声を荒らげて泣き叫んで、反抗心を露わにします。水分補給の為に薄めた麦茶を飲ませようとしても、気分が向かないと娘は、不機嫌な大人のようにそれを手で乱暴に払い除け、顔を背けます。そういう態度は時に、相手が幼子だと分かっていても、腹立たしく感じられるものです。けれど、大人であり、親である私にとっては、娘のそうした振舞いを「赦す」ことが責務であり、使命であると言えます。人間が成長の過程で様々な理不尽な振舞いに及ぶことは至極当然の話であり、理窟で言えば「黙って飲めばいいのに」と思うことでも、彼女の側では何らかの理由があって、麦茶を飲むことに抵抗している訳ですから、私はそれを「赦さなければならない」のです。いや、決して義務感に縛られて、不承不承そのように思うのではなく、赦すことが、彼女を愛することであり、延いては彼女の成長を促すことにも通ずるのだと、半ば信じ込んでいるのです。

 赦すことは、相手を理解しようと努めることと同義ではないかと、近頃の私は考えます。年度が革まって間もない職場でも、新入社員や新人のアルバイトと接する時間が増え、彼ら彼女らの仕事振りに頼りなさや瑕疵を見出すことは日常茶飯事です。そういうとき、昔の自分だったらもっと露骨に不機嫌になったり、苛斂誅求を加えたりしただろうなと思う場面でも、私は努めて冷静さを保ち、仮に叱責するとしても注意深く言葉を選ぶように努めています。単なる感情的な叱声が、他人の心を積極的な、明るい方向へ揺り動かす見込みは皆無に等しいからです。他人を委縮させ、落胆させ、恐怖させることは、相手の成長に歯止めを掛けることと似ています。無論、厳しい口調で叱らなければならない場面というのは存在しますが、それを感情的な叱声によって相手に伝えようとする試みは、往々にして無益な徒労に終始します。そのように考えられるようになっただけでも、私という人間が社会に齎す害毒は、減少したと言えるのではないでしょうか。

 赦す力が強ければ強いほど、人間の器量は大きいのではないか、という仮説が頭に浮かびましたが、この命題を安易に一般化し得るとは思いません。例えば自分の娘を何者かに殺されたとき、私は下手人を寛大に「赦せる」かどうか、自信が持てません。情状酌量の余地がある事情ならば未だしも、例えば純然たる「遊戯」のような積りで、相手が娘を嬲り殺したと仮定したら、私は極刑を望まずにいられるか、分かりません。赦すことが、殺された娘への「裏切り」に値するのではないか、死んだ娘は下手人への「復讐」を求めているのではないか、という考えから、自由でいられるかどうかも分かりません。そのとき、赦すことが常に正しいのだと、神のような境地に立って、他人にも自分自身にも言い切れるだろうかと想像を逞しくしてみると、私は今のところ「否」と答えることしか出来ないのです。

 今日、仕事の帰りに千葉駅のコンコースへ通じるエスカレーターに向かって歩いているとき、向かいから猛然と走ってきた高校生くらいの男の子の肩が、私の肩に劇しくぶつかりました。先方は謝るどころか立ち止まりもせずに走り去っていき、私は幾らか腹立たしい想いに囚われました。道を空けるべく避けようとしなかった自分も悪いのですが、あんな勢いで狭い道を走って、想像通り人に衝突しておきながら一言の謝罪もしないとは、全く屑みたいな野郎だと思いました。とはいえ、追い掛けて怒鳴りつける訳でもなく、私は黙って自分自身に言い聞かせました。若しもあの少年が、暴力団に所属する強面の人々だったら、私は振り向いて怒鳴りつけるだろうか、いや、報復が怖くてそんなことは出来ないだろう。しかし、高校生の少年に対してならば、追い掛けて罵声を浴びせることも辞さないのだとしたら、それは「卑怯」と言うべきではないだろうか、と。

 こんな小さな揉め事にさえ、苛立ちを禁じ得ない私が「小者」であることは、火を見るより明らかです。況してや、自分の妻や娘が第三者の悪意によって傷つけられたとしたら、私はもっと歴然と「阿修羅」になるでしょう。無論、そうした現実が「赦すこと」の尊厳を毀損する訳ではありません。ただ私は、こうした問題に就いて、葦のように頼りなく考え続けることしか出来ないのです。

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