サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「書評」に就いて

 私は最近、中上健次の分厚い長篇小説「地の果て 至上の時」(新潮文庫)を読んでいる。最初に購入して通勤の往復の電車で読み出し、途中で飽きて投げ出したのが二十代前半の頃だったと曖昧に記憶しているので、それから知らぬ間に随分と月日が過ぎてしまったことになる。

 相変わらず読み辛い、独特の屈折と転換に満ちた文章なのだが、最初に読んだときよりも随分と面白く感じられるのは、年の功という奴だろうか。物凄い筆圧で押し付けるように書かれた、凝縮した文体なので、読み進めるのにやたらと時間が要る。未だ物語の半分にも達していない。

 此処数箇月、もっと熱心に、集中して読書しよう、今まで恐れ戦いて敬遠してきた世界中の古典と呼ばれる書物にも挑んでみよう、確りと読書の時間を確保するように努めようと考えながら、実際にそのように行動してきた訳だが、そうやって日々を暮らすうちに徐々に溜まっていく「澱」のようなものの存在を、不図悟らずにいられない瞬間が、脳裏を掠めるときがある。「澱」と言っても、明瞭にその存在の中身や内訳を自覚している訳ではないのだが、ずっと読書に浸っているうちに少しずつ「現実」の感覚が削れて、麻痺していくように思われるのは、必ずしも気の迷いではないだろうと思う。或いは、ずっと水の中に潜って、日頃とは異なる風景の中に耽溺し続けるうちに、何だか息苦しくなって水面へ顔を突き出したくなるような感覚と、言い換えられるかも知れない。何れにせよ、余り好ましい徴候ではないという気がするのだ。

 こうした漠たる考えに一層鮮やかな輪郭を齎したのは、ショウペンハウエル(ショーペンハウアー)の「読書について」(岩波文庫)を読んだ影響かも知れない。多読を戒め、書くことを整理する前に書き出すことの愚かしさを論難する、ドイツの哲学者の機智に富んだ文章を読みながら、本を読むことに人生の目的を半ば委ねるような生き方が、果たして自分の望む生涯の姿であろうかと、改めて考え直す契機を授かった次第である。読書という営為を「他人の頭に考えてもらうこと」であると定義し、寝ても覚めても書物に齧りつく学者の生活を「精神的不具廃疾」の要因と、攻撃的に断言して憚らないショウペンハウエルの言説は、一から十まで直ちに頷いてよいものか判断に苦しむところだが、その言い分には真摯で清冽なものが含まれている。少なくとも尋常ならざる説得力が隅々に浸透していることは明白である。

 無論、読書の効用を全面的に否定する意思は、現在の私には備わっていないし、ショウペンハウエルも無闇な多読を批判しているだけで、良書を読むことには確実な価値を見出している。少しずつ時間を割いて、仕事や私生活の合間に、中上健次の書き遺した南紀の異様な物語を読み進めていくのは、決して無益な経験ではない。ただ現在の私は、読書感想文だけでこのブログを埋め尽くすことに就いては、懐疑的な考えを持ち始めている。一冊の本を読み、その内容に関して雑多な文章を書き散らすことが、個人的な思索に対する生産性を全く持ち得ないなどと、極論を吐く積りはない。書くことが読むことと切り離し難い、緊密で根源的な関係を有していることは、明白な事実である。けれども、私は専ら本を読むことから、個人的な思索の燃料や養分を汲み上げようとする姿勢が、果たして建設的なものかどうか疑わしく思っている。本当に大事なことは、つまり「生きる」ことの本義は、自分自身の意見を作り上げることであり、その材料として書物に刻み込まれた先人の偉大なる「叡智」の片鱗を流用することは、決して罪悪ではないと思うが、意見を汲み出す「水源」が常に「他人の言葉の凝集された形」であるというのは、幾分、不健全であるようにも思う。ショウペンハウエルの執拗な説教が、そうした疑念を私の胸底に芽生えさせたのであろう。

 そう考え出したら今更、大上段に振り翳した竹刀を振り下ろすように、わざわざ気持ちを入れ替えて「本の虫」になろうと企てるのは随分と滑稽な、或いは窮屈な判断であるように、自分の心が感じ始めたのだ。確かに本を読むことには様々な「愉悦」も「利得」も付帯しているが、だからと言って、その道を専一に歩もうと覚悟を固める義理はない。世の中には凄まじい量の書物を読破して、その感想文を認めている猛者たちが数多く存在しているが、そういう人たちの後塵を拝しているのが癪だ、などと考え始めるのは実に馬鹿げた話であろう。熱心に本を読み続けて、そこから触発された幾つかの「些末な考え」を後生大事に抱き締めて、尤もらしい「書評」のような文章に纏めて公表したところで、一体何になるのだろうか。ショウペンハウエルが「多読」を戒めるのは、それが「再読」や「精読」の障碍として作用してしまうことを懸念した為であろう。実際、一冊の優れた書物から汲み上げることの出来る「思索」の振幅と奥行きは、たった一回分のブログ記事に収まるほど痩せ衰えた、貧弱な代物ではない筈だ。

 このブログには、幾つも「書評」に類する記事を投稿しているが、沢山の書物を読み、それに就いての文章を著そうとする不自然な衝動が、私の下らぬ虚栄心と結び付いていることに、反省の眼差しを向けない訳にはいかない。その証拠に、私は読んだばかりの書物に就いて、その中身の記憶が薄れないうちにと、慌てふためきながらキーボードを乱暴に叩いているのだ。そういう軽薄な営為の堆積の涯に、一体如何なる人間的価値が形成されると言うのだろうか? 本当に大切なことは、自分が心を惹かれた数行の文章の為に、長い時間を費やして己の思索を磨き上げ、深めていくことではないだろうか?

 無論、一冊の書物も読まずに己の考えを深めることは出来ないだろうし、書物から多くの智慧を学び得るという人間の習性は貴重な財産であるには違いない。だが、世の中に蔓延する多くの「書評」が、生きていく上でどれほどの価値を持ち得るのか、疑わしいということも一つの真実ではないかと思う。本を読み、そこから導き出された感想の断片を書き殴る、それだけで私たちが有益な(「実用的である」という意味ではない)思索の体系や秩序に到達することが出来ると信じるのは、幼稚な考えである。一行の文章に「真理」を宿らせる為には、私たち自身の実際の「生活」や「経験」に就いて、充分に思索を練り上げることが肝要である筈だ。人は読む為に生きるのではなく、生きる為に読むのである。ショウペンハウエルが「学者の生活」を嘲笑したのは、彼らが「読む為に生きている」ように見えたからではないだろうか。人間にとっては、生きることが総てであると、確か坂口安吾も書き遺していたではないか。

 

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)