サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「コミュニケーション」に就いて

 現代は「コミュニケーション」という理念が異常に重視され、魔法の言葉として濫用される時代である。多くの人々が「コミュ力」(コミュニケーション力)の多寡を競い合い、自分は「コミュ障」(コミュニケーション障碍)であるという奇怪な卑下を用いて、不可解な予防線を張りたがる時代である。無論、コミュニケーションという事象そのものは太古の昔から私たち人類にとって根源的な機能、或いは習性として存続してきたものであり、決して近来の発明品ではない。然し、これほど頻繁に、極めて卑俗な観念として「コミュニケーション」という言葉が用いられるのは、現代的な事象であると看做して差し支えないのではないだろうか。

 良くも悪くも様々な技術の発達で、世界は随分と狭くなった。特にインターネットの爆発的な普及が、世界の狭隘化に拍車を掛けている。二十四時間、絶えず世界中の人々と何らかの関わりを持つことが可能であるという現実は、たった半世紀前でさえ考えられなかった異様な状況である。そうした通信技術の発達が歯止めを欠いたまま劇しく亢進し、最早人々は全くの純然たる孤独の内側に耽溺することすら許されない。ミラン・クンデラは、フランツ・カフカの文学の特質として「侵害された孤独」という表現を用いていたが、まさしくカフカの偉大なる洞察力は来るべき新世界の本質的な特徴を照らし出していたのだと、大袈裟に称讃してみるべきだろう。実際、私たちの本質的な苦悩の由来は「侵害された孤独」に存するのではないか。インターネットの普及、そして携帯電話の普及が、私たちを或る集団やシステムから切り離し、アトミックな個人としての形成を促した。固定電話から解放された私たちは同時に「家庭」という単位からも解放され、浮遊する自由な個人として生きているが、それは言い換えれば、個人があらゆる「隔壁」を喪失したということである。家族からの解放は確かに一種の「自由」の実現だが、その自由が結果として「剥き出しの個人」を産み落とし、そのナイーブな表面に直截な社会的影響を齎しているというのは、厄介な逆説である。

 剥き出しの個人として定義された私たちは、絶えず他者との「コミュニケーション」の成否に神経を尖らせることを強いられるようになった。家族のように親密な領域においては、例えば「言葉の使い方」や「表情」や「振舞い方」に意識的な洗練を求める必要性は小さい。彼是と冗長な説明を試みずとも、共有された時空(「場所」と「歴史」の共有)の堆積が、つまり親密な「文脈」が総てを事前に定義し、描写し、物語ってくれるからだ。親密な共同体に帰属することが、そのまま生きることの総てであった時代においては、コミュニケーションという観念が殊更に人々の念頭へ浮かび上がる必然性は極めて乏しかっただろう。しかし、アトミックな個人としての実存、そういう現代的実存の宿命に囚われた私たちは最早、そのような共同体の文脈に依存して万事を遺漏なく処理することなど許されないのだ。良くも悪くも私たちは「他人の沙漠」に暮らしているのであり、何も共有し難い相手とも努力して交流を持たねばならない因果な時代を生き延びねばならないのだ。

 だが、コミュニケーションの巧拙に関する種々の議論が、安定した共通の地盤の上に展開されているとは言い難い。コミュニケーションが「他人の沙漠」を生き抜く為の不可欠な手段として認知されている為に、却ってその本質が客観的に理解されていないという懸念が存在しているのだ。多くの人々は「他人と巧く付き合う方法」という次元で「コミュニケーション」を論じているが、それは単なる表層的な処世訓の亜種に過ぎない。本当に大切なことは、つまり「コミュニケーション」の礎石として理解されるべきことは「自己理解」であり、「自己との対話」である。この面倒で地味な過程を軽々しく踏み越えて一挙に「他者」へ迫ろうとする総ての方法論が、下らない蹉跌に苦しむことになるのは自明の理である。自分自身が何者なのか、それを充分に検討することもなく、そもそも「自分の意見」を確かめるという素朴な手続きさえも怠って、他者との表面的な共存共栄の実現に血の滲むような努力を捧げる生き方が、己の精神に及ぼす禍いに就いて、私たちは慎重な分析を惜しんではならない。コミュニケーションの目的は社会的な栄達でも、私利私欲の満足でもなく、この世界に関する真実を捉えることなのだ。愛想笑いや巧みな雑談の技術で、コミュニケーションの「上達」を成し得たと信じる愚かな謬見の懐で、私たちは絶えず悪足掻きを続けている。そうした危険な方針は「自己の喪失」を齎し、結果的に「他者の喪失」を惹起する羽目に陥るだろう。コミュニケーションは常に「真実」と手を繋いでいる。それは時に暴力的な仕方で「他者との訣別」さえも、哀れな私たちに強いるのである。

 

小説の技法 (岩波文庫)

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