サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「卑屈」に就いて

 自分で自分の人生に責任を持つことを拒むと、人間は必ず「卑屈」になるか、或いは「虚勢」を張るようになる。自分で自分を信頼することが出来ないという精神的状態は、自分の人生に自分自身の判断で責任を取ろうとせず、総てを外在的事象の結果として捉えようとする他律的な姿勢の所産である。

 そういうことを、偶々昨日考えた。これは分かり切った問題であると同時に、実践の次元においては必ずしも容易であるとは言い難い問題である。日々の習慣の蓄積が、総てを決定してしまっていると言い換えてもいい。自信を持つことは、地道な習慣の産物であり、日々の思索の累積の効果である。逆に言えば、自信を持たないという態度も、日々の思索と習慣の綜合的な結果である。問題は、その循環を如何に切り替えていくか、という点に存する。

 卑屈であることは、防衛的に振舞うということである。それは自分自身の人生に関連する諸問題の決定権を他人に委ねることで、自分自身に課せられる責任を解除しようとする構造を備えている。他人の意見に対して忠実に振舞うという態度は、言い換えれば他人の下した判断や認識や行動に、自分自身の実存の根拠を求めようとする態度は、結局は「自分が責められたくない」「自分が悪いと思いたくない」という恐怖の反映である。如何なる結果も甘んじて受け容れ、今後の行動に活かしていくという実際的な合理性が、そうした防衛的実存においては不可避的に欠落してしまう。総ての問題が「自分は悪くない」という現実の証明に向かって集約されてしまう。それが単なる「自分の正当性に関する言明」として構成されているのならば、未だ救いはある。しかし「卑屈」の症状が深刻化すると「自分は悪くない」という明確な言論を行なうことさえ、一種の「禁忌」として避けられるようになる。そのとき、人間は予め自分で自分を裁き、批判することによって、他者からの批判を凍結しようと試みる。「自分の欠点は総て理解している」という仕方で身構えることによって、他者からの批判を悉く無効化し、その威力を減殺しようと企てる訳だ。

 こうした考え方、つまり「他者からの批判を先取りすることによって、他者からの批判を無効化する」という姿勢は、あらゆる対話と議論の本質的な拒絶であり、実際的な合理性の否認である。卑屈な人間は、表向きは他者の意見に絶えず熱心に耳を傾けているように見えるが、それは他者の意見を正しく理解する為ではなく、己の免罪の論拠を探し求める為の身振りに過ぎない。他者の意見を根拠に据えない限り、彼らは何らかの纏まった意見を明示的に語ることさえ出来ないのだ。

 絶えず他人を批判し、攻撃し続けることで、己の正当性を確保しようと試みるドナルド・トランプ的な独裁性と比較したとき、卑屈な人間は全く対蹠的な存在であるように感じられるが、それは表層的な結果の差異に過ぎない。卑屈な人間は常に他人の意見を傾聴しているように振舞いながらも、結局は根源的な次元において、他人の意見を頑迷に峻拒し続けている。彼らは「自分の意見」を明示することに関して深刻で絶望的な不安を懐いており、どうしても自分の意見を明示しなければならない局面に立たされた場合には必ず「他人の意見」を借用し、代用する。その為の材料として「他人の意見」を蒐集することに奇妙な情熱を燃やすのである。だが、それは「他人の意見」を「他人の意見」として客観的に把握し、理解する為の行動ではない。寧ろ彼らは「他人の意見」を「自分の意見」と混同し、両者の境界線を曖昧に融解させることで、自分自身の存在を秘匿しようと試みているのだ。その目的は無論、自分自身が「傷つくこと」を絶対的に回避することに存する。

 だが、卑屈な人間が他者から求められたり、受け容れられたりすることはあっても、他者からの「尊敬」を得ることは限りなく不可能に近い。自分自身の人生に責任を取らず、借り物の意見で武装して、あらゆる負傷を忌避し続ける人間に、敬意を懐き得る要素は一つも存在しない。卑屈であることは、何物も生み出さずに自己の「保存」だけに留意し続けるという姿勢を指しており、従って彼らは「他者」に対する本質的な貢献に就いて、甚だしく無関心なのである。卑屈に振舞うことは寧ろ、他者の存在に対する「敬意」の欠如であり、エゴイズムの複雑に捻じ曲がった形態である。それが表向きは如何に他者に対する従順さに満ちていたとしても、本質的には「卑屈であること」は「他者の拒絶」であり「自己の温存」を意味しているのだ。