サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「孤独」に就いて

 世の中には「孤独を懼れるな」という激励に満ちた言説が飛び交っている。実際、孤独そのものを懼れても無益であることは確かな事実であり、多かれ少なかれ、人間が孤独という止むを得ない状況に呑み込まれることは少しも奇態な現実ではないと言うべきだろう。だが、不用意に長引き、蓄積された「孤独」が齎す害毒に就いても、私たちは慎重な検討を加えるべきであると思う。

 例えば「金さえあれば幸福であるとは限らない」という命題と「金さえあれば陥らずに済む不幸というものが存在する」という命題は矛盾せず、両立させることが出来る。同じように「孤独であるから不幸であるとは限らない」という命題は「孤独である為に惹き起こされる不幸というものが存在する」という命題と背反しない。

 何れの場合にも「金」や「孤独」そのものは純粋で透明な記号のようなものであり、ただそれに附随する現象が多様であるという結論が得られるだけに過ぎない。それ自体の善悪を論じることは無益であり、重要なのはそこから派生する諸問題に就いて公正な検討と考察を加えることである。

 そもそも「孤独」とは何なのか。素朴に考えれば、それは人間が周囲から切り離された状態にあるということを指し示している。だが、本当に重要なのは、そこから導き出される種々の奇怪な現象の方だ。「孤独」そのものを客観的に定義しようと試みても無益である。

 「孤独」は、個人が「自己対話」に充当する時間や労力や頻度を増大させる。人間はたとえ絶海の孤島に追い遣られても、何らかのコミュニケーションを必要とするからである。無論、生まれて死ぬまで一切の生身の「他者」を知らなければ、その人間は言語という極めて人間的な媒体を用いることが出来ないので、その対話は非常に内容の貧しいものとなるかも知れない。だが、言葉を知らないとしても、何らかのプリミティブな「自己対話」が生じることは恐らく確実であろうと思われる。

 自己との深甚な対話が、人間の精神的な成長と発展に不可欠なプロセスであることは言うまでもない。だが、自己対話だけを頼りに、この錯綜した世界を渡り歩いていくのは決して素晴らしく賢明な態度であるとは言い難い。自己自身との語らいが新たな発見によって人間を成熟させるのと同じく、他者との対話を通じて初めて切り拓かれる知見というものが、この世界には存在している。言い換えれば、閉鎖された自己対話は時に外在的な現実との摩擦を失って、奇妙に抽象的な幻想として膨張する場合がある。それは他者とのコミュニケーションの回路さえ通じていれば容易く踏み破られる筈の幻想であることが多い。他者、或いは自己の絶対的な「外部」の存在は、私たちの内面に蟠る「自己対話」の独特な分泌物に宛がわれる頑丈な「鑢」のようなものである。その「鑢」によって簡単に削り取られてしまう汚穢の中には、自己対話の閉鎖性が齎した「澱」のようなものが多分に含まれている。

 そうした「孤独ゆえの盲目」が齎す種々の害毒は、どうしても他者との具体的な、生き血の通った邂逅を経由しない限り、解毒され得ないと私は考える。私たちは自己対話による精神の厳格な「鍛造」を繰り返すことで、他者の眼差しを想像的な仕方で自己の内部に転写する力を獲得するが、それを純粋に自己の知見の内部から、いわば「演繹」のような手順で完全に導き出すことは不可能である。私たちの想像力が生み出す「他者」の内的な形象は、私たち自身の内面性の質的な限界によって、その輪郭や射程を制限されている。私たちが、そうした内面性の質的な限界を拡張していく為には、所謂「他者性の経験」が最も合理的で有効な材料となる。他者を知ることで押し開かれる「私」の広漠とした領域は、閉鎖的な純然たる自己対話が耕し得る農地よりも遥かに果てしない。

 他方、孤独が齎す「盲目」は、孤独が齎す「明視」と裏腹の関係に置かれている。私たちは容易く「他者の知見」の茫洋たる海原に溺れて、私自身の「思考」や「信念」を見失ってしまうことが出来る生き物なのだ。孤独ゆえに「盲目」が齎す夥しい数の「死角」を懼れる余り、私たちは一般的な常識と称される諸々の知見の渦中へ飛び込んでいくことがある。それによって私たちは社会的な通念との間に親密な「癒合」の関係を築き、パブリックなものに総身を支配されるような境涯へ移行する。そのとき、漸く私たちは「孤独が齎す明視」の畏怖すべき威力の意義と価値を、生々しく理解する準備を卒えるのだ。

 孤独が齎す「明視」とは何か? 孤独な状態に立ち戻ることで辛うじて獲得される、貴重な知見の正体とは何なのか? 私たちは常に社会的な圧力に平伏することを命じられながら生活している。その生活が幸福であろうと不幸であろうと、そこには社会的通念という極めて強力な宗教的理念が介在している。その強固な教義に抗うことは時に危険であり、退屈であり、何よりも先ず「孤独」である。だが、その「孤独」だけが孕み得る叡智のようなものが存在することを考慮するならば、私たちが「孤独」に対して過大な不安と悲観を覚え続けるのは、生産的な態度であるとは言えない。

 これらの両義性を、どのように制御すればいいのだろうか? 「孤独」は人間の精神を閉鎖的な腐敗の中に追い遣ることも出来るし、或いは蒸留された純粋のアルコールのように美しく透き通った「認識」を形成することも出来る。孤独が齎す淋しさが、人間の精神をずたずたに引き裂いてしまうこともあれば、寧ろそれだけが傷ついた精神の発熱を鎮める為の「妙薬」として働き得る局面も存在するだろう。

 良くも悪くも人間は孤独である。だが、私たちは束の間であっても、誰かと何かを分かち合い、共有することによって、孤独が分泌する根源的な「疼痛」を忘れ去ることが出来る。それは孤独という人間の生得的な本性を隠蔽する、赦し難い「欺瞞」であろうか? いや、そんなことはないし、そんな考え方は健全ではないと、私は訴えたい。私たちは「共有」と「交通」の欲望に絶えず駆り立てられ、それらの理念に奉仕する為に与えられた命を死ぬまで削り続けているのだ。