サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「罪悪」に就いて

 何が悪なのか、何が罪なのか、その定義を厳密に見極めようと試みても、視界は一向に晴れようとしない。罪悪という言葉自体は充分に歴史的な手垢に塗れているように見えるが、その内訳は極めて多様で、様々な社会的条件に四方八方から制約されている。つまり、誰にとっても絶対的な「悪」であると認められ得る事案というものは、存在しないのだ。殺人や強姦や窃盗や放火や、そういった陰惨で人間性の「中核」を毀損するような行為さえ、それを殊更に好んで手を染めようと企てる人々が少なからず存在するという事実は、私の心を慄然とさせる。

 例えば怨恨や情痴が殺害の理由ならば、未だ私の精神は辛うじて救われるのかも知れない。恨みに基づいて人を殺すという行為自体は嘔気を催すほど陰惨だが、そこには人間の感情に深く結び付いた「物語」の効果が介入している。その物語の効果が、良くも悪くも「感情移入」や「共感」の働きが関与してくることを許容するのである。然し、それらの罪悪が純然たる快楽に基づいていたり、或いは完全な罪悪感の欠如に基づく「軽率さ」の所産であるという話になると、私は棒立ちの状態に追い込まれずにはいられない。特別な理由も持たずに、愉悦的に、或いは全く自動的に成し遂げられる重大な「罪悪」という観念は、人間性に対する素朴で基本的な信頼を粉微塵に打ち砕いてしまう。

 本質的な意味で邪悪な犯罪は、そもそも「罪悪」という観念そのものに対する否定や排撃として構造化されているのではないだろうか。悪いことだとは分かっているが、詮無い事情に衝き動かされて止むを得ず罪人となった、という筋書きならば、それは結局のところ「罪悪という物語」の枠組みを超越するものではない。だが、罪悪そのものの否定が根底的に介在しているのであれば、それは「罪悪」という人間性の内奥に関わる理念を踏み躙っているということになり、一挙に事態は錯綜を極める。罪悪の意識を持たずに罪悪を犯す人間という造形は、奇妙な矛盾を孕んでいるように見えるかも知れないが、当人の内面においては何も複雑ではなく、飽く迄も自然な仕方で「道理」が成り立っているのである。

 何を「罪悪」と看做すか、或いはそもそも「罪悪とは何か」という議論が、人間の社会性や公共性を成立させ、維持していく上で不可欠の手続きであることは明白な事実である。それは裏返して言えば「正義とは何か」という問いに立ち向かうことであり、良くも悪くも人間の言動を制約する「規矩」に就いて、その必要性を承認するということである。そうした基盤自体が済崩しに蹂躙されてしまえば、私たちはもっと根源的で致命的な「問い」の深淵に沈み込んでいくことになる。そもそも「人間」とは何なのか、という根源的な問いが、私たちの精神を呪縛し、日常的な安定性に亀裂を走らせる。何もかもが、束の間の約束事のように頼りなく、危うく感じられるようになる。抑えつけられていた不安や悲観が露わに噴出する。だからこそ私は、罪悪という問題に抗い難く関心を惹き付けられてしまうのかも知れない。

 世界中で惨たらしい罪悪が繰り返され、積み重ねられ、寧ろそうした禍々しい出来事の連なりが何故、世界の総てを覆い尽くしてしまわないのか、不思議に思うほどだが、そもそも「罪悪」という観念は何処で生まれたのだろうか。何が「悪い」のか、そもそも「悪い」とは何を意味する言葉なのか。それらの問いに、通俗的な一般論で報いることは容易いが、敢えて「罪悪とは何か」を考究するということは、そのような一般論では拾い集めることも掬い上げることも出来ない真実の断片を求めることであろう。

 所謂「罪悪」に共通する性質として差し当たり、それは「他者を毀損する事象」である、という命題を挙げることは出来る。だが、これだけでは少しも視界は明るくならないし、問い掛けの次数が繰り上がることもない。他者を毀損するとは、如何なる事態を意味するのか、という問いは少しも解決されていないからである。他者の自由や権利を侵犯すること、と言い直せば、多少は見通しが立つだろうか。もっと言い換えれば、それは他者の「欲望」を妨げること、他者の「願い」を打ち砕くこと、他者の「尊厳」を踏み躙ることであろう。抽象的な言い方を用いるならば、罪悪とは即ち「他者を否定すること」である。このように性急な断定を下したとき、私の眼には如何なる風景が映じるだろうか。

 具体的な人物でも、場合によっては無生物や、天候のような自然現象まで含めてもいいが、そういった自分の外部に存在する「他者」、つまり自分の恣意的な判断や裁定に従属することのない「他者性」のようなものを否定することは、根源的な「罪悪」の特質である。無論、ここまで議論を抽象的な次元に移行させてしまうと、例えば法律的な意味での罪悪としての「犯罪」に就いて、何らかの建設的な見解を提示することは出来なくなる。だが、先ずは法律的な次元における罪悪の意義や要件を考察する前に、根源的な「罪悪」に就いての省察を積み重ねていかなければ、法律的な次元における「犯罪」に関しても、有効な議論を構築することは出来ないだろう。

 法律に先行して存在する人間の言動の「規矩」に名前を授けるとするならば、それは当然のことながら「倫理」というものになるだろう。倫理的な諸観念が全く存在しないところで「法律」の必要性が訴えられる見込みは限りなく皆無に等しい。人間の精神と存在を呪縛する見えない律法、暗黙裡に感受される曖昧な薄明のような規範の観念が認知されない限り、具体的で個別的な法律の建築が人々によって求められることはない。

 倫理という言葉の意味を定義するのは、罪悪という言葉の意味を定義するのと同じくらい困難である。それは道徳や法律といった社会的な観念と深い関わりを持っているが、だからと言って「倫理」という概念そのものを社会的=歴史的な慣例と同一視するのは望ましい態度ではない。何故なら「倫理」という観念は、特定の地域や共同体によって制約される何らかの規範を指しているのではなく、人間という生物学的な種族の総てに共通する普遍的な規範の萌芽として理解されるべきものであるからだ。少なくとも、私はそういった意図で「倫理」という言葉を用いたいと考えている。

 何を悪と看做し、何を罪と呼ぶか、それは人々が所属する社会や組織の性質に応じて幾らでも変化するものだという凡庸な相対主義は、確かに私たちの精神に頑迷に付着した雑多な偏見や固陋な先入観を漂白する上では有効な薬剤であるが、そもそも人間が何かを「罪悪」として位置付ける仕組みそのものを考察するに当たっては、大した有効性を発揮しない。何が悪なのか、という個別的な問いと、そもそも「悪」とは何なのか、という根源的な問いを混同してはならない。

 私たちが何かを「罪悪」として定義するときの普遍的な基準(それは必然的に抽象的な理念として表明されざるを得ない)が、「倫理」の観点に基づいて論じられるべき課題である。そして私は「他者性の否定」という至極曖昧な文言を、倫理的な基準として仮説的に示してみた。

 他者を否定するということは、他者を批判することとは違う。他者の見解を批判することは、それが穏健で誠実な作法に則って行われるのならば、寧ろ積極的に推進されるべき社会的な権利であるとさえ言い得る。しかし、他者性の否定は、そうした誠実な批判の成立する基盤すら破壊してしまう、根本的な「罪悪」である。他者性への怨嗟、つまり自己の恣意に従うことのない外在的な事物の孕んでいる特性を憎むことは、人間が犯す最も恥ずべき過ちである。無論、こうした意味での「罪悪」から完全に解放されることは、生身の人間にとっては極めて困難な責務であるが、実行が困難であるからと言って、目指すべき理想が直ちにその意義と価値を喪失するということにはならないだろう。

 他者の意見を批判することは健全な活動だが、他者の意見を拒絶したり黙殺したりすることは、人間として誠実な姿勢であるとは言い難い。同様に、気に入らない人間に暴行を加えたり、嫌がる人間を無理に押さえ付けて強姦に及んだりすることも、他者性の否定という罪悪の条件を満たしており、従って倫理的な観点から厳粛に批判されるべきである。だが、殺人者にも強姦者にも一定の人権を認める必要があるということも、同じく倫理的な観点から眺めれば、妥当な認識である。

 自分の意に染まぬ人間を否定しないこと、これが倫理的な価値の根源的なものである。無論、こうした倫理的な正しさが、生身の人間の実存と必ずしも親和性の高いものであるとは言い難いことも事実である。だが同時に、それゆえに倫理的な指標が、私たちの実存に対して健全な指導力を発揮するのだと言い直すことも可能なのだ。自分の意に染まぬ人間を否定する野蛮さは、根源的な「罪悪」の特質である。何もかも自分の思った通りに動いてくれなければ許せないという偏狭な精神は、典型的な「罪悪」の症候である。野蛮であるということは、言い換えれば「罪悪」の観念に囚われないということだ。「罪悪」の観念を保有しないということだ。こうした「野蛮」の風潮が、多くの国家で堂々と表明され、正義の仮面を被って練り歩いている現代の風景は、根源的な意味で「罪深い」眺望である。

 

自由論 (光文社古典新訳文庫)

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