サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十四章 樹海の社にて 1

 息詰まるような夜陰に覆われたギラム高地の曠野を、獣車は疾風の如く唸りを上げて、北西へ突き進んでいた。経験を積んだ傲岸不遜の馭者であるサスティオの手綱捌きは荒々しく、鞭の揮い方は残忍なほどに劇しかった。

「アラルファンから帝都へ行くには、街道を通るのが便利なんだがね。警事局の追手を撒く為なら、安全な舗道ばかり選んでる訳にもいかねえや。全く旦那は幸運だぜ、尻の青い若造には、こんな荒れ果てた路面は到底捌けねえ。無様に横転して、曠野の真ん中で立ち往生するのが落ちでさあ」

 饒舌に喋り続けるサスティオの威勢の良さは、青天井の報酬だけが原因という訳でもなさそうであった。決まり切った道筋を平凡な客の為に走り抜けるだけの、日頃の退屈な仕事とは一味違う特殊な依頼に、夜半の睡魔も概ね消し飛んでしまったらしい。時折、平気で客車の小窓を振り返って愉しそうに長広舌を揮うので、荒れ地の窪みや突き出した岩塊に突っ掛かって大惨事を惹起するのではないかと、三人の乗客は絶えず気を揉み続けた。尤も、サスティオの技倆は単なる口先だけの自画自讃ではなく、仄白い月明かりに照らされた単調な曠野の風景を狂ったように掻き分けながら、一度も肝を冷やすような失態は招かずに済んでいた。無論、目的地へ恙なく到着するまでは、彼の乱暴な運転の正しさを手放しで称讃する訳にはいかないが、安全を第一に重視する慎重で臆病な馭者を引き当てるより、現在の状況には適した人選であると言えるだろう。

 本来ならば、アラルファンから帝都へ獣車で赴く場合には、運務庁の指定する甲種幹道の一つ、アラルファン街道が最も安全で合理的な経路である。然し甲種幹道は官憲の監視が厳しく、中継地のユリールには大規模な検問所も控えていて、王家の膝下へ不埒な悪漢が忍び込まぬように炯々たる眼光を行き渡らせている。追手の靴音を警戒する惨めな流氓には、不適格な道程であると言わざるを得ない。

「サスティオ。貴重な講釈は有難いが、車を御することに集中してくれないか」

 ラシルドの控えめな懇請は、荒れ果てた路面を削り取る車輪の盛大な咆哮に遮られて、残念ながらサスティオの耳には届かなかった。熟練の馭者は、久方振りの大仕事にすっかり気分を高揚させて、青白い月明かりに照らされた曠野を駆け抜けながら、大音声で喚くように喋った。

「誰の眼にも触れねえことが御要望なら、ミューバの切通しを使うのが一番賢明でさあ。強面の警官でも軍人でも、態々スコルディルの森に分け入ろうなんて馬鹿げた魂胆を持つ奴はいねえ」

 数百年の眠りを貪ると称される城砦都市ミューバ。その神秘的な名には、世人の尊崇と畏敬を集める独特の響きが備わっている。ギラム高地の北部に聳え立つ、峻険な霊峰ミューバ山の西麓に位置し、裾野を覆い尽くす濃密な樹海の深淵に懐かれて、俗人の自由な往来を禁じているミューバは、帝国神務庁の指定する神領の中でも古参の部類に属する。「スコルディルの森」という樹林の異名は、神領開闢の立役者である三代目の正教主に因んでおり、今でも不浄の俗人が迂闊に踏み込めば神々の瞋恚を購い、苛烈な雷光に打たれると信じる者は多い。

「スコルディルの森に勝手に獣車で乗り入れて、無事に済むのか」

 敬虔な外会の正教徒であるラシルドは、傍若無人という形容が相応しいサスティオの不敬な計画に、慎重な姿勢を示した。然しサスティオは、神々の威光に対する不感症を自らの主義に定めているのか、乱暴に鞭を唸らせて馬の屈強な臀部を叩きながら、何の屈託も感じさせない表情で堂々と返答した。

「安心して下さいよ、旦那。俺の甥っ子は、ミューバに奉職する護官なんでさあ。彼奴が神様と教会に身を捧げてくれてる御蔭で、伯父貴の俺が多少の不品行を働いても、万事免罪ということになる訳です」

「そんな旨い話は聞いたことがないな。身内が内寓の正教徒だからと言って、スコルディルの森を踏み荒らすのが見逃されるとは思えんが」

「全く心配性の旦那だ。別にミューバの切通しを使うのは今回が初めてって訳じゃないんですぜ」

「その甥っ子に遭遇せず、他の護官に差し止められたら、どうする? 無理に押し通る積りか」

 ラシルドの至極常識的な懸念に、サスティオは弱点を突かれたような仏頂面で報いた。

「旦那たちは唯でさえ、綱渡りの境遇なんでしょうが。一か八かの冒険に有り金を投じるくらいの覚悟は、固めてもらいたいもんですな」

 論理的な話し合いに応じる意思がサスティオに欠けていることを看取すると、ラシルドは諦めて客車の背凭れに深く躰を埋め、沈黙の時間に没入した。何れにせよ、完璧な安全を高望みしても無益であることは、厳粛な事実なのだ。饒舌な馭者の言い分に己の命運を委ねるのも、必要な勇気であろう。唯でさえ命懸けの危険な逃避行を承知の上で、こうして遽しく夜行の獣車を雇っているのだから、サスティオの上擦った蛮勇を執拗に咎めるのは差し控えるべきではないか。

 夜明けが近付き、東天の縁が仄かな茜色を帯び始めた頃、獣車は漸くミューバ神領を囲繞する鬱蒼たる樹林の陰翳を視野に捉えるところまで辿り着いた。峻険なミューバ連峰の紡ぎ出す尾根が、広大な樹海の彼方此方へ、霧に包まれながら伸びている。こんな辺鄙な土地に隠棲して、古の正教主は寂寥を覚えなかったのだろうかと、ラシルドは改めて悲劇の賢者の底知れぬ胸中を慮った。

 正教主第三世スコルディルは絶世の美貌を誇る女の神官であったと、旧記は伝えている。評判を聞きつけた黄駿帝オルダーリ・グリイスから深甚な寵愛を賜り、帝妃として宮殿に招かれたが、房事の最中に雷撃のような天啓に打たれ、内寓の信徒でありながら、神帝ターラー以外の存在へ衷心を捧げた罪を責められた。己の不実と背徳を恥じた彼女は、神帝の憤怒を鎮める為に自ら美しい緋色の毛髪を剃り落として王宮を去り、人跡未踏の僻地であったミューバ山の絶頂へ従者も連れずに登攀して、壮絶な祈祷の行に入った。スコルディルの悲痛な訴えを聴き届けた神帝は、改悛を認める代わりにミューバへの永住を求めると共に、今後一切、異性の肌に指一本たりとも触れてはならぬと厳命を下した。

 鳥獣の跋扈する寂寞たる樹林を終の栖とすることを強いられたスコルディルの境遇を憐れんで、黄駿帝は草深いミューバの地に壮麗な神宮を建立することを決断した。外夷に脅かされることのないよう、頑強な隔壁で四囲を覆われたミューバ神宮は、黄駿帝の嫉視を免かれる為に内寓の女のみを受け容れ、止むを得ず男手を必要とする場合には、更生を認められた腐刑の罪人だけを用いた。

 皇帝の寵愛という稀有な栄光を自ら擲ち、神帝への忠誠に身命を捧げたスコルディルの廉潔な精神と伝説的な美貌は、正教徒たちの熱烈な尊崇を集めた。黄駿帝の口添えもあり、正教主第二世ハルヴァールの歿後、スコルディルは全会一致の議決を受けて、その後継に指名された。彼女自身は再三、正教主の栄誉を固辞したが、内寓の信徒たちの熱意を押し退けるまでには至らず、止むを得ず重責を引き受けることとなった。だが、樹海の深淵に隠遁したまま、正教会の総本山であるタルラド神領にも、帝都のエクリウシス聖堂にも滅多に足を運ばなかった第三世は、野心に満ちた精力的な実務家であったハルヴァールとは異なり、純然たる象徴の立場に留まった。彼女の歿後、その忠実な侍従であった神官頭マラセラクの手で、ミューバ神宮はターラー正教会浄身派の本山として改組された。スコルディルの遺志と信条を受け継ぎ、浄身派の人々は今も一切の姦淫を戒めており、入門を望む男子の神官には必ず去勢を義務付けているという。

「あれが目印さ」

 速度を緩めた獣車の馭者台から響いたサスティオの声に、ラシルドは束の間の夢想を破られて眼を見開いた。客車の窓から顔を突き出して、サスティオが手で示した方向へ視線を投じると、黒ずんだ老木の根方に、長年の風雨に摩耗した小さな石碑が佇んでいるのが見て取れた。表に黄駿帝の紋章が刻まれたその古めかしい石碑には、神領開闢の来歴と、部外者の立入を禁ずる警告の文言が彫り込まれているらしい。

「この樹海は、ミューバの護官の縄張りだ。不浄の塊みてえな男どもが無断で入り込めば、喉笛を掻き切られたって誰にも文句は言えねえ。黄駿帝陵下が御定めになった、神領保全法ミューバ特例条項の威光が、何百年経っても衰えずに輝いてるって訳だ」

 訳知り顔に御託を並べるサスティオの上機嫌な横顔から眼を逸らして、ラシルドは行く手に広がる陰気な眺望を凝視した。交差する葉叢の隙間を縫って、弱々しい曙光が切れ切れに射し込むのを除けば、樹海の懐を領するのは冷え冷えとした一面の薄闇である。耳慣れない種類の鳥の鳴き声が間遠に響き、絡まりながら交尾する蛇の番の如く入り組んだ蔓草が、年老いた巨木の強張った幹に纏いついて今にも絞め殺そうとしている。時折、艶やかな青い翅を閃かせて、不吉な蝶々が無粋な闖入者を惑わすように視界を掠めて飛び去った。恐らくは、スコルディルの森だけに棲息するという稀少な藍光蝶であろう。禁域を侵す不届者を眩惑し、樹海の迷宮へ誘い込むと言い伝えられる神々の「衛兵」である。

 獣車には不向きな薄闇の林道を辛抱強く走り続けるうちに、徐々に勾配が強まり始めた。唯でさえ乏しい木洩れ陽が一層翳り、尾根の斜面が樹林の天蓋へ覆い被さるように猛々しく迫り上がる。軈て複雑に絡み合う喬木が不意に途絶え、苔生した岩肌に左右を挟まれた岨路が、忽然と姿を現した。