サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十四章 樹海の社にて 2

「停まれ!」

 薄暗い天空へ向かって伸びた木々の梢から、猛禽が風を切って駆け下るように、鋭利な叱声が一行の鼓膜を力強く撃ち貫いた。弾かれたように慌てて手綱を引き、速度を緩めた獣車の鼻先に、敏捷な人影が一陣の旋風の如く舞い降りて立ち開かった。薄明に阻まれて、その風体を精細に見定めることは困難であったが、腰帯から吊り下がった佩刀から推し量るに、恐らくはミューバの樹海を警邏する護官の一人であろうと思われた。

「フェレッサ。俺だ、サスティオだよ」

 馭者台から身を乗り出して、サスティオは相手の警戒を緩めようと声高に名乗りを上げた。油断のない足取りで踏み出した護官は、樹林に紛れて侵入者の眼を欺く為の工夫であろうか、総身を濃緑の分袍で包み込み、双眸だけを残して暗い茶色の覆面を被っていた。

「こんな時間に、樹海の暗がりへ踏み込むなんて、一体どういう料簡なんです、伯父さん」

 獣車に歩み寄り、覆面の隙間から炯々たる眼光を閃かせて、護官は咎めるような口調でサスティオの顔を凝視した。発せられた声色から察するに、未だ二十代半ばの青年であろう。

「此処は、曲がりなりにも神聖なる『スコルディルの森』です。事前の相談もなく、獣車で乗り込まれたら、庇いたくても庇えなくなります」

「悪かったよ。急ぎの客を乗せてるもんでね。何しろ上玉なんだ。善は急げと言うじゃないか」

「伯父さんの商売の邪魔をする積りはありませんが、どんな世界にも必ず、口煩い堅物というのはいます。形式と慣例を何よりも重んじる人々です。この神領が、浄身派の本山であることを忘れた訳じゃないでしょう」

「そんなに熱り立つなよ。済まなかったと思ってるさ。どうしても、このミューバの切通しを使わなきゃならねえ事情があったんだ」

「一体、どういう素性の方々なんです」

 警戒心を露わにした護官の問い掛けに、ラシルドたちは客車の中で静かに息を潜めた。外界との往来を制限し、樹海の深淵に潜んで暮らすミューバの護官たちが、アラルファンで持ち上がった昨夜の大規模な騒擾に関して、既に充分な情報を得ているとは考え難い。況してや悪逆なヴィオルの口車に乗せられて、闇守の末裔同士の血腥い抗争に荷担した事実を、容易く見抜かれる虞は小さい筈だ。それでも、万が一の不幸な事態を懼れる気持ちは、完全には払拭出来なかった。イシュマールで警務官を殺害した、途方もない悪党どもの人相書きが、神領の警護を担う屈強で俊敏な男たちの耳目に絶対に触れていないとは言い切れない。

「帝都まで商談に往かれるそうだ。尤も、単なる金儲けが目当てという訳じゃねえ。然る高貴な御方の内意を受けて、重要な交渉に臨まれるんだ」

 サスティオの拵えた出任せの言い訳を耳にして、フェレッサの猜疑的な眼光は益々、その尖鋭な輝きを増したように感じられた。

「それほど重要な役目を帯びた方々が、何故伯父さんの獣車なんかに乗り込んでいるんです」

「伯父さんの獣車なんかにとは、随分な御挨拶じゃねえか。お前、何時から俺にそんな生意気な口を利くようになった?」

「話を逸らさないで下さい。僕は護官としての職責に、可能な限り忠実でありたいと考えているだけです」

「他人行儀な喋り方は止せ。いいか、これは重要な密命に関わってるんだ。何でもかんでも聞かれるままに洗い浚い、ぶちまけられる筈がねえだろう」

「便宜を図れと言うのなら、それなりの誠意を示してもらわないと、僕だって庇いたくても庇えないんです。分かりますか、伯父さん」

「その科白は確か、さっきも聞いたな。庇いたいんなら、庇ってくれりゃあいいじゃねえか。水臭い御託を、ごちゃごちゃと並べ立てるんじゃねえよ」

 サスティオの露骨な苛立ちと強引な口説きの科白に、フェレッサは少しも心を動かされぬまま、我儘で直情的な伯父をどうやって落ち着かせたらいいのか、黙って考え込んだ。

「伯父さん。だったら、身分証を見せて下さい」

「身分証だと? この期に及んで、俺の顔を忘れちまったってのか」

「伯父さんの顔は覚えています。伯父さんが車に乗せている客人の身分証です。商用ならば、許可証を御持ちの筈です」

 緑邦帝国においては、何らかの経済的な活動に従事する人間は必ず、帝国商務庁営業院の審査を受けて営業許可証を取得することを、法律によって義務付けられている。全国を駆け巡って種々の商談に明け暮れる人々は皆、己の身分を明らかにする為に、許可証の写しを携えて旅路を往くことを慣例としている。

「ちょっと待ってろ」

 甥の頑迷な態度に憤懣を禁じ得ないまま、サスティオは粗暴な物腰で馭者台から飛び降りた。客車の小窓へ頭を差し入れ、声を潜めてラシルドに問い掛ける。

「旦那。どうにも具合の悪い話になってきた。あの餓鬼、許可証を見せろと言いやがるんだ。持ってるかい」

「営業許可証の写しなら、ないこともないが」

 イシュマールで営んでいた揚物屋の営業許可証の写しならば、胴回りへ麻縄で結わえた行李の隠しに畳んで収めてある。遽しい出立の間際に、捨て置くのも不用心だろうと考えて一応は持ち出したのだが、ミューバの護官に身分証の代わりとして差し出すのが適切かどうかは、直ちに判断のつかない問題である。イシュマール警事局の撒き散らした人相書きと照合され、瞬く間に乱暴な獄吏へ身柄を引き渡されることになるかも知れない。

「迂闊に見せたくはないな。何とか巧く切り抜けられないか」

「俺だって切り抜ける積りでいたんだが、フェレッサの野郎、すっかり浄身派の空気に染まっちまって、頭が固くなりやがった」

 サスティオは再び、腕組みして佇む険しい顔の護官の前へ立ち戻り、大袈裟な溜息を吐いて不慣れな芝居を始めた。

「何でも、アラルファンの宿屋で、寝込みを悪党に襲われたらしくてね。大事な書類の束を盗まれちまったそうだ。生憎、許可証の写しも犠牲になったという訳さ」

「大事な書類を盗まれて、それでも構わず帝都へ急いでいると?」

「勿論、警事局には届け出てるさ。だが、音沙汰がねえからと言って、何時までも愚図愚図と、あんな治安の悪い街に留まってられねえだろう」

「別に許可証の写しでなくとも、身分を証明出来るものなら何だって構いません。他に何かあるでしょう」

 先刻よりも更に不機嫌な面構えで客車へ引き返したサスティオは、荒々しく首を左右に振って、相手が難物であることを腹立たしげに捲し立てた。

「旦那。何か他に、身分証の類は持ち合わせておられないんですか」

「サスティオ。私たちは誰にも素性を知られたくない。申し訳ないが、そういう厄介な立場なんだ。何とか押し切ってもらえないだろうか」

「押し切りたいのは山々なんですがね。さっきも申し上げた通り、彼奴はすっかり浄身派の教えに骨絡みになっちまったらしい」

「サスティオ。お前は自信満々で、スコルディルの森を押し通れると請け合ったじゃないか。今更、正規の官道へ引き返したところで、無事に済む訳がないだろう」

「そうは仰いますがね。俺だって、旦那が身分証一枚も表に出せないような境遇の御方だなんて、思ってもみなかったんだ。責任は五分と五分ですぜ」

 不毛な議論を戦わせる二人の態度に痺れを切らしたように、それまで無言で事態の成り行きを見守っていたフェロシュが、頗る冷淡な口調で横槍を投げ入れた。

「時間が勿体ないわ。身分証は持ってない、何とか通してもらえないかと、正攻法で駄々を捏ねればいいじゃない」

「それで埒が明かねえから、悩んでるんじゃねえか」

 相手を見下すようなフェロシュの刺々しい口吻に、唯でさえ高ぶっている感情を余計に刺激されて、サスティオは声を荒らげた。無論、冷ややかに研ぎ澄まされたフェロシュの眼差しは、不機嫌な馭者の威嚇を受けた程度では微動だにしない。

「いいから、さっさと行ってきなさい。決着がつくまで、引き返して来ないで」

「あんた、一体何様の積りでそんな偉そうな科白を」

「聞こえなかったの? あたしは気が短いのよ」

 フェロシュの吐き捨てるような恫喝の言葉は、直ちに覿面の効果を発揮した。粗野な男たちと肩を並べて何十年も働いてきたサスティオにとって、口論や諍いは日常茶飯事であったが、客車の座席に凭れて尊大な態度で膝を組む紅髪の女の迫力は、今まで味わったことのない、肝の冷えるような威圧感に満ちていた。何れにせよ逃げ場が見つからないのなら、この得体の知れない女と議論するより、甥っ子の情に訴えて地べたに額を擦りつけてみる方が遙かに気楽な選択肢である。

「分かったよ。そんなに眉を吊り上げないでくれ」

 最早、骰を投げるより他に術はあるまいと肚を括って、サスティオは険相を崩さずに立ち開かったままのフェレッサへ歩み寄り、はっきりとした口調で断言した。

「残念ながら、身分証の類は何も持ち合わせてねえそうだ」

「では、この先へ皆さんを通す訳には参りません」

 一切の感情を省いた事務的な声音を形作って、フェレッサは無慈悲な判決を言い渡した。サスティオは拙劣な詭弁を駆使して、堅固な鉄壁に抜け穴を穿とうとする不毛な努力に時間を費やすことを断念し、胸を反らして清々しく開き直った。

「フェレッサ。無理難題を並べ立てて、お前に迷惑を掛けていることは百も承知だ。俺だって、罪の意識を感じてねえ訳じゃねえんだ。分かるな?」

「泣き落としは止して下さい。幾ら伯父さんの頼みでも、素性の確かめられない人間を黙って通行させる訳にはいきません。護官の使命は、聖なる神領の安寧と平穏を守り抜くことです。身内に便宜を図る為に、剣呑な博打に手を染めることは出来ませんよ」

「今回に限って、何でそんなに杓子定規な科白を吐くんだ? 今までは、眼を瞑ってくれてたじゃねえか」

「アラルファンの方で不穏な騒擾があったと、報せが入ったんです。如何なる不審者も見逃すなと、護官長の厳しい御達しです。本来ならば、伯父さんの身柄だって勾留しなければならないんですよ」

「馬鹿野郎、随分と恩知らずな口を叩きやがる。世話になった伯父貴を縛り上げるって言うのか」!

「だから、内緒で見逃すと言ってるんです。一刻も早く、引き返して下さい。他の護官に見咎められたら、もう庇えません」

 一見すると優男だが、自分の信念を守り通すことに関しては人一倍の情熱を示す甥の厳格な拒絶に、サスティオの絶望は極限まで深められた。大人しく撤退することが許されるならば、こんな有難い話はないが、客車に陣取った酷薄な女狐が如何なる仕打ちに踏み切るのか、妄想を膨らませてみただけで背筋が凍りつきそうだ。

「だったら、護官長に会わせてくれ」

 深く考え抜いた結果の言葉ではなかったが、サスティオが窮余の策として口から発した提案は、謹厳実直なフェレッサの鋭利な双眸に意想外の波紋を生じさせた。

「護官長に? 急に何を言い出すんですか」

「だって、お前じゃ埒が明かないんだろう。此処で押問答を遣ってる時間なんかねえんだよ。上が頷きゃ、お前だってそれ以上、理窟を捏ねなくても済むじゃねえか」

 甥の心に萌した微細な動揺を見逃さずに、サスティオは渾身の力で口説きの科白を並べ立てた。恥も外聞も投げ捨てた、その浅ましく執拗な伯父の態度に、フェレッサは思わず絶望に似た溜息を漏らす。本来なら市井の獣車屋がミューバの聖域を駆け回るなど、絶対に認められることのない危険な特例である。帝国の定めた神領保全法の条文を厳密に徴すれば、サスティオもフェレッサも共に手荒く捕縛され、獄舎の暗闇へ投げ込まれても文句の言えない立場なのだ。過去に数度、伯父に限って特別に切通しの利用を黙認したことは確かな事実であり、その判断自体はフェレッサの側で反省すべき、軽率な汚点である。だが、危険な特例であることは伯父の方でも充分に承知していたのではなかったか。

「護官長に裁可を仰ぐということは、今回の件が公になるということですよ。それで不都合はないんですか? 許可証の写しさえ見せられない立場の人間が?」

「だから、それは失くしたんだって言ったろうが」

 頑固一徹な性格を存分に発揮して、サスティオは半ば自暴自棄のように言い張った。何れにせよ峻厳な通達が出回っている状況下で、済崩しに黙許という決着へ持ち込むことは出来ない。どうしても伯父が引き下がれないのであれば、上長に経緯を説明して、膠着した状況を打開してもらうしかないだろう。此れ以上、不毛な議論に長々と時を費やすのも馬鹿げている。息子が浄身派の内寓としてスコルディルの森へ奉職することに強硬な反発を示したフェレッサの両親を、強引な話術で宥め、丸め込んだ昔日の功績を大仰に蒸し返して、恩知らずな甥だと罵ってくるに違いない。

「どういう結論が下っても、僕を恨まないで下さいよ」

「それは俺の勝手だ」

 涼しい顔で断言する伯父の顔を、フェレッサは心底呆れ返って凝視した。御本人の仰る通り、全く以て身勝手な男である。