サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ロゴスの不協和音(小説における「調和」)

 小説は、単一の論理的な体系による支配に叛逆し、それを巧妙に突き崩す。それは、或る一つのイデオロギーに、別様のイデオロギーを対峙させるという、通常の論駁とは異質な方法意識に基づいている。

 或るロゴス(logos)と別のロゴスとの相剋、これは小説に限らず、私たちの暮らす実社会においても日常的に生起している凡庸な現象である。私たちは様々な理由と経緯に導かれて、実に多様な口論と係争を恥じることなく繰り広げている。それは結局のところ、何れが正しいのかという単一の規矩を求める仕方で行なわれている訳だが、それは世界を単一なロゴスによって説明し、定義し、支配しようとする潜在的な欲望の隠然たる反映である。つまり、その根底には「ロゴスは単一的である」という認識が、絶対的な基準として横たわり、暗黙の承認を受けているのだ。

 だが、小説とは正に、そのような「ロゴスの単一性」に抵抗する為に編み出された文学的技法であり、従って小説の内部に描き出される種々のロゴスは、如何なる綜合的な結論にも達することが出来ない。言い換えれば、綜合的な結論に到達し得る物語は決して「小説」とは呼称し得ないのである。明治期の文学者・坪内逍遥は「小説神髄」という著名な書物の中で、江戸戯作の世界を支配する勧善懲悪のイデオロギーを批判し、人情や世態風俗の写実的な描写の重要性を説いた(私は「小説神髄」を読んでいない。従って、この理解が正しいという確信は持っていない。間違っているようなら、御教示願いたい)が、それも恐らくは「勧善懲悪」というロゴスの単一性を排撃することで、明治期の日本に「小説の精神」を導入しようと企てたからではないだろうか。

 勧善懲悪というイデオロギー、或いはロゴスそのものが、小説の題材若しくは主題として否認されるべきだと、私は言いたいのではない。問題は、作品の世界全体が、勧善懲悪という単一のロゴスによって包摂され、隅々まで占有されてしまうことに存している。だからと言って、勧善懲悪を否定する別種のロゴスが全面的な勝利を得ればいいと考えるのも謬見である。頗る大雑把な表現を敢えて用いるならば、小説という芸術には断じて「結論」を持ち込んではならないのだ。明確な「結論」の附与は、小説の構造的な成功ではなく、寧ろその原理的な失敗であり、ロゴスに対する屈辱的な敗北に等しい。何故なら、結論の確定は或る単一的なロゴスの確定に他ならず、それは「小説」という文学的様式が孕んでいる本質的な方針に正面から背反する事態であるからだ。

 ヘーゲル弁証法(私はヘーゲル書物を一冊も読んだことがない)は、或る一つの命題(テーゼ)と、それに対立する性質を備えた命題(アンチテーゼ)が止揚されることで、両者を統合する高次の命題(ジンテーゼ)に昇華される、という論理的な手順を定式化している。この定式を踏まえるならば、小説とは正しく「止揚」(aufhebenに抵抗する技法であり、精神的原理である。如何なる結論に向かっても止揚されることの有り得ない現実の構造を描き出す為に、小説は多様なロゴス(ミハイル・バフチンの用語で言えば「ポリフォニー」)を受け容れ、それらを戦わせ、そして最終的な決着を拒絶し続ける。言い換えれば、小説はあらゆる種類の矛盾を、その世界の内部に保存し続けるのである。

 小説は一切の矛盾を止揚せず、最終的な解決も齎さず、そのまま事実の構造を克明に浮かび上がらせる。その意味で、坪内逍遥が勧善懲悪の理念を排撃し、人情や世態風俗の描写を重視したことには意義がある。無論、それは決して小説が写実的な描写に固執しなければならないという窮屈な規律を正当化するものではない。小説における「リアリズム」(realism)の目的は、事物や風俗の克明な模写を通じて、その対象を読者の眼裏に再現することに存するのではない。重要なのは、リアリズムが「ロゴスの単一性」という偏狭な欺瞞を打破する為の武器であることを、正しく認識することである。そうでなければ、小説は「映像」の有無を言わさぬ強烈な表現力に悄然と屈服する以外の途を選ぶことが出来なくなるだろう。

 小説が「結論」と「止揚」に抵抗する芸術である以上、その筋書きは常に唐突な「断絶」によって遮られるほかない。単一のロゴスには必ず明瞭な結論が存在しなければならないが、複数のロゴスが並立する小説の時空においては、明瞭な結論が樹立されることは有り得ない。そもそも、明瞭な結論を樹立することの不可能性を告示することが、小説という精神の本義なのである。ハーマン・メルヴィルの「白鯨」において、エイハブ船長率いる捕鯨船ピークオッド号は、モービィ・ディックとの熾烈な争いに破れて呆気なく難破し、唯一人、語り手に選ばれたイシュメールだけが生き残る。そこに明確で筋道の通ったロゴスの介在を見出せるだろうか? 寧ろメルヴィルは、そのような尤もらしい「ロゴス」としての物語を否定する為に、あの「白鯨」という法外な作品を生み出したのではないだろうか。「単一のロゴス」を否定しようとする「白鯨」の情熱は凄まじい。その逸脱と矛盾の絡まり合った不協和音は、小説という芸術に固有の壮麗なハーモニーなのである。

白鯨 上 (岩波文庫)

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白鯨 中 (岩波文庫)

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白鯨 下 (岩波文庫 赤 308-3)

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