サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

小説「夏と女とチェリーの私と」 4

 眠れない夜。堪えられなくなり、訳もなく寝静まった百万遍附近の路地を歩いてみる。夏の生温い夜風が肌を洗い、私はどうにもならない胸底を何処かの工務店に頼んで舗装し直してもらおうかと馬鹿馬鹿しく考えてみるほどに憔悴していた。ボロボロに荒れ果てた砂利道のような心の表面の亀裂から、じくじくと禍々しい情熱が泡を吹いて浮き上がってくる。所詮、童貞で女を誑し込む技倆のない私には手の届かない夢に過ぎなかったか、彼氏持ちでは難易度が弥増すばかり、全く見込みのない相手に惚れてしまったものだ、こんな見境のない計算の甘い男に、天は果実を賜らぬだろう。

 だが、と改めて心の舵を無理に切ってみる。そうやって無闇に悲観してばかりいるのも虚しく能のない話じゃないか、たとえ彼氏がいたって所詮は若者同士の未熟な恋、未熟な恋は軈て腐れて地べたへ墜落するものと相場は決まっている、簡単に手を退いては益々重篤な童貞シンドロームが、自意識過剰性脳炎が悪化するばかりではないかと考え直してみると、心なしか気分が軽くなったような気もした。これは私の悪い癖だ、戦う前から結果を予測してその絶望的な試算結果に打ちのめされ、気後れしてしまい、出陣の予定を取り下げてしまうのだ。そんなことでは現実は変えられない、この圧倒的な現実の鋼壁に小さくても穴を穿つ努力は試みるべきだと至極真っ当な、彼女には傍迷惑な考えが鎌首を擡げる。

 転がっていた誰かのチューハイの空き缶を思い切り蹴飛ばして、すっかり寝静まった闇を束の間掻き乱してみる。決意と呼べるほど大層な情熱が胸底に湧き起こった訳でもないが、下ばかり向いて歩くのは止そうと思えただけでも明白な進歩である。だが、蹴飛ばされたチューハイの空き缶のように頼りない私に、一体どんな新たな、画期的なチャレンジが出来るというのだろう。彼氏がいると聞いただけで忽ち高ぶっていた欲望を日向の砂糖菓子の如く蕩けさせ、委縮させてしまう難儀な性分なのだ。チェリーボーイ。少しも甘酸っぱさのない、青々と未成熟な果実の化身。

 孫子の言葉だと思うが、敵を知り己を知れば百戦危うからずというのがある。己を知り、敵を知り、総てを知り尽くせばどんな戦いにも必ず勝機を見出せるという有難い訓示である。だが、自分がどんな人間で、相手がどんな人間なのかをはっきりと掴むのはとても難しい営為だ。それが出来たら勝てるのは当たり前だろう。いや、こんな後ろ向きの考え方に固執しているからいけないのだ。兎に角、諦める前に遣れることは幾つもある筈で、そうやって直ぐに膝を屈して断念してしまうから、この俺は何時まで経っても清々しいほどにチェリーボーイのまま、動けなくなっているのだ。

 先ずはその彼氏とやらの正体を知ると共に、彼女自身に就いてももっと詳細な知識を蓄えなければならないだろう。そうでなければ、勝負の舞台に派手なガウンを翻して躍り上がることさえ出来ないのだ。何も小難しい理窟を捏ね回して気の滅入るような日々に溺れている必要はない。社会人とのことだが、社会人とは何か? 煎じ詰めればそれは要するに日本人であって、日本人である限りは私と同族であり、従って社会人であるという理由だけで恐れ戦いたり、だらしない自分の生活を振り返って疾しさや惨めさに屈服する必要もない。そうだ、俺もそいつも同じ時代に同じ国に生まれた同じ日本人の息子、宇宙的規模から観測するならば、どちらも有り触れた芥子粒に過ぎない点では同類なのだ。だから、何も慌てる必要なんて、そうだ、何もない、いや、しかし、俺は過完熟チェリーボーイで、向こうはどうやら未来へ繋がる卑猥な種子を快楽目的で(生殖目的ではないなんて不純じゃないか)撒き散らしつつ、何事もなかったような顔で一端の社会人生活を送っていると思しき非童貞男子なのだから、やはり同類という風に一括りにするのは僭越なのかも知れない。

 そうやって徒然と下らぬ哲学的問答に時を費やすうちに、一人暮らしの薄ら寒いアパートへ再び巡り巡って帰りついていた。大学時代から使い続けている木造の黴臭いアパート。俺の宿敵たる見知らぬ紗環子先輩の彼氏は恐らくこんな薄汚い陋屋には暮らしていないだろう。もっと素敵で瀟洒なマンションにでも、月給の一部を家賃に割り当てて優雅に膝でも組んでワイングラスを傾けているのだろう。そもそも、月給なんてものが所定の口座へ月々振り込まれるような身分というのが、時給で雇われた使い走りの落ち零れである私には信じ難い厚遇のように思われた。幾ら眼の前の課題に真剣に取り組んでみたところで、所詮は時間当たり幾らの計算で僅かばかりの鳥目を頂戴しているに過ぎない身分である以上は、紗環子先輩のように子供たちへの指導の方法をどのように改善していけばいいか、などという崇高な問題に私的な時間を費やす気分にはなれない。そう、そんな風に、物事に対して真摯で殊勝な心構えを以て挑みかかるという習慣が、私という人間には哀しいほどに欠落していた。どう足掻いても、此れでは冴えない時給暮らしの御身分からは脱け出せそうにもない。

 そうやって再び根暗な心情が迫り上がり、襟首を冷たく湿っぽく濡らし始めるのを、私はどうにも出来なかった。恥ずかしいことだが、自分の心に自分自身で言うことを聞かせるのは何より難しい。他人が相手ならば却って遥かに手厳しく尤もらしい御説教だって咬ませるだろうに、相手が自分自身となった途端に俄かに鞭を撓らせることさえ躊躇いたくなるのは、見苦しいほどの自己愛に染められていることの紛れもない証拠だろう。ああ、やだな。本当にこんな自分が嫌だなあ。そんな具合に呟いてみたって所詮は情け無い気持ちを紛らわせる為に下らぬ芝居を打ち、自分で自分に向かって虚言を弄しているだけなのだから、本当に始末に負えない糞野郎だ。

 だが、自己嫌悪は何よりも自己愛の裏返しに過ぎず、そんなもので見果てぬ夢を叶える為の重要な第一歩に踏み出すことは出来ない。相手が誰であれ、勝負を申し込むのは個人の裁量に属する問題であり、恋愛に資格など要らないのだ、と強く言い切ろうとして再び心が射精直後の男根の如く萎れてしまう。彼氏とごはん、という先輩の何の衒いも気負いもない生ツイートが意識の檜舞台を鏡獅子に扮した市川団十郎の如く劇しい勢いで駆け巡っていく。糞野郎に人を愛する資格があると、本当に断言し得るのか? 此れは一つの現代的な、哲学上の難問であろう。本当に誰もが誰かのことを好きになるのは自由な権利なのか? 偉大なる日本国憲法はそれを保障しているだろうか? 無論、法律に守られていなければ女性を愛することも抱擁することも出来ないなんて甲斐性のない男では、紗環子先輩が普段は誰にも見せることのない秘密の笑顔を開示したりしてくれる見込みは乏しいと言わざるを得ない。彼女はどんな男が好きなのか、その御手本の魚拓を首尾良く手に入れることが出来たとしても、却って底知れぬ絶望はブラックホールの如く無限の深淵へ広がっていくばかりではないのか?

 空転する自意識に引き摺られながら、私は錆びついた外階段を上がって冷え込み始めた夏の夜気を無言で嗅いだ。溝のような臭いが時折立ち昇ってくる、この破格の家賃だけが取り柄のアパートへとぼとぼと項垂れながら帰り着いて、私は猶更虚しくなった。誰もいない玄関の三和土で草臥れたスニーカーを脱ぎ捨て、汗臭い靴下を摘んで小さな洗濯籠へ投擲する。何も変わらない日常、若しかすると永久に代り映えのしないまま流れ去っていくかも知れない、この曖昧な一生。刻々と曖昧に霞んでいく私のくすんだ自画像。一体、何を考えているのだろうか。こうやって自分で自分の希望を荒々しく踏み躙って粉々に砕いておきながら、涼しい顔で愚痴を零すのだから、本当に私は惰弱な男だ。

 部屋の灯りを点けると、紗環子先輩の彼氏の瀟洒なマンションはきっと笠も附いていない白熱電球でも端の黒ずんだ蛍光灯でもなく、クールな輝きを無限に蓄えたLEDで照らされているのだろうと、益体もない妄想が迫り上がって前頭葉の独裁を掻き乱した。半導体やら顕微鏡やらの極めて高額であるに違いない商材を取り扱う、院卒の若く希望に満ち濫れた一人の営業マン。その男と私が、互いに不倶戴天の宿敵として土俵で塩を撒いたり四股を踏んだりしている奇怪な光景が眼裏を高速で往復した。はっけよい、のこったのこった。あの呪文のような言葉に唆されて、私は見知らぬ年上の恋敵とぶつかり合い、上手を取ったり下手に出たり、あれやこれやと策を弄して悉く無様に見破られたりしながら、少しずつ人生の土俵際へ追い詰められていくのだ。慌てふためいたところで、日頃の稽古の厖大な積み重ねが段違いなので抗ってもどんどん追い込まれ、逃げ場を塞がれていく。奈落の底へ投げ飛ばされる哀れな間男志望者。他人の女に生意気にも手を出した、不埒な童貞の滑稽極まりない醜態。ああ。ああ無情。噫無情。

 単身者用の、ビジネスホテルにでも転がっていそうな中国製の小型冷蔵庫に手を差し込んで冷えた第三のビールを取り出し、柿の種とピーナッツを袋から卓子の上に広げた洟紙へ空けて、何やら会社の仕事に倦怠を覚え始めた三十代後半の商社マンのような横顔を気取ってみる。私は未だ何も知らず、世間という果てしない曠野の彼方にどんな艱難が待ち構え、蔓延っているのかも弁えていない、単なる怠慢なフリーターでしかない。子供の教育なんて、本当は烏滸がましい話なのだ。私自身が圧倒的に教育の足りていないウンコ野郎であるにも拘らず、人様の子供を束の間預かり、その貴重な時間を奪い取って彼是と偉そうに指図してみたり、気さくな人生の先輩を気取って柔らかな物腰で数式や英単語に就いての知識を披歴したり、そんなのは全部不毛な猿芝居であるに決まっている。

 そうやって無闇に自嘲的なことばかり考えながら、特売で仕入れ第三のビールの在庫を払底させるほどに酔い潰れると、前後不覚になって私は掃出しの傍に敷いた万年床へ、腐った屍体のように倒れ込んで高鼾を掻いた。